ミシュランシェフ陳啓明氏の「龍天門」復帰は何がすごいのか?
復活と確執
華麗なる復活と言えば、1985年に追い出されるようにしてアップルを離れたものの、業績不振の救世主として1996年に再び招聘され、そこからiPod、iPhone、iPadを世に送り出してアップルを甦らせたスティーブ・ジョブズ氏が挙げられるでしょう。
確執ということでは、その芸術性と創造性から「パティスリー界のピカソ」と評され、世界中のスイーツファンを魅了してやまないピエール・エルメ氏の話が有名です。エルメ氏は若干24歳でフォションのシェフパティシエに就任するという快挙を成し遂げた後、そこから1997年にラデュレに副社長としてヘッドハンティングされ、高い期待以上の業績を残してラデュレを立て直すも、社長のダヴィッド・オルデー氏との仲違いによって袂を分かち、ピエール・エルメ・パリをオープンしたという物語があります。
料理の世界では人材の流動性は激しいですが、ジョブズ氏の復活劇ほど世の中を騒がせたものはありませんし、エルメ氏の物語ほど多くの人に知られたものはそうありません。
復帰劇
そのような中で、最近とても衝撃的な復帰劇がありました。それは、「ミシュランシェフは何を考え、横浜ベイシェラトン ホテル&タワーズ「彩龍」を選んだのか?」でもご紹介した陳啓明氏にまつわるものです。
45年ものキャリアを有し、広東料理を極めた陳氏が横浜ベイシェラトン ホテル&タワーズからウェスティンホテル東京に2015年10月14日付で復帰し、「龍天門」の総料理長として腕を奮うこととなったのです。
龍天門とは
まず最初に、龍天門がどのようなレストランであるか、その歴史を紐解いてみましょう。
龍天門は1994年にウェスティンホテル東京と同時にオープンし、有名小説の中でセレブリティの女性が行きつけにしている店として言及された有名店であり、2010年から2012年までにミシュランガイド1つ星を獲得するなど専門家からの評価も高く、その一方で、食べログでも400件を超える口コミ数ながらも4.0点近くの高得点を残している、名門中国料理レストランなのです。
トレンドを作る
トレンドを作ったということで、私は次の事柄についても高く評価されるべきだと考えています。
龍天門ではメニューに掲載されていない「坦々麺」が人気を博しており、知る人ぞ知るシグネチャーディッシュのひとつとなっていますが、これは、現在では食通ではない人からも認知されている「裏メニュー」という言葉の伝播に大きく寄与しました。
また、今でこそグランド ハイアット 東京「チャイナルーム」やマンダリン オリエンタル 東京「センス」やコンラッド東京「チャイナブルー」のようなモダンチャイニーズダイニングが、大切なデートの選択肢として挙げられることは何の違和感もありませんが、「ホテルの中国料理レストランでデートすることが素敵」であるという礎を築いたのはヒルトン東京「王朝」であり、そしてウェスティンホテル東京「龍天門」なのです。
直近の龍天門
では、直近の龍天門はどうなっていたのでしょうか。
陳氏が去った後、トウ徳勝氏が料理長を務めるなどしていましたが、先に言及したセンスに移るなどして、龍天門はあまり安定していたと言うのは難しかったと思います。
それだけに、名門である龍天門にとって、陳氏の復帰はことさら重要性を増していたわけですが、上湯の作り方からサービスの所作まで妥協を許さない陳氏のことなので、ただ単に古巣へ戻ればよいと考えていたわけではありません。
公式就任よりも2ヶ月も早い2015年8月から龍天門で既に指揮をとっており、この2ヶ月間を通して食材やメニューを全て見直し、新たな龍天門の総料理長として復帰したのです。
巻き込む力
陳氏が動いたことで、多くの物事もまた同時に動きました。陳氏が復帰するからということで香港にいた実力派の焼物師である梁氏も復帰し、さらには、頻繁に香港で食材やトレンドをリサーチすることで有名な陳氏に常に帯同し、陳氏の哲学や料理や感情を誰よりも理解している谷口謙一郎氏も6年振りにマーケティング部長としてウェスティンホテル東京へ復帰したのです。
これらの人事的な動きが、陳氏の復帰劇がいかに影響力が大きいのかを物語っていることはもちろん、ウェスティンホテル東京がどれだけ龍天門に重きを置いているかが伝わってくるでしょう。
龍天門の食べ所
では、新しくなった龍天門の食べ所はどこなのでしょうか。
龍天門は少し前に中国料理から広東料理へとシフトしていますが、その妙味である焼物によりフォーカスできるようになりました。梁氏が復帰したことにより、焼物の質が高まったことはもちろんのことですが、それに加えて店内に焼物の屋台を設けたことによって、より出来立てが食べられるようになったり、香港さながらの臨場感も楽しめるようになったりしています。
また<八ヶ岳の鶏おやじ>の異名をとる中村氏がオーナーを務める「中村農場」で育てた龍天門オリジナルブランド「龍皇赤鶏」を使ったり、中国野菜も国産にこだわって千葉県八千代台の契約農家から仕入れたり、おこわは手間隙かけて作るために予約限定にしたり、マンゴープリンを縁起のよい金魚で模ったりと、注目の食べ所は尽きません。陳氏がやりたいことができていると言ってよいでしょう。
新メニュー
具体的には、メディア向けのレセプションで提供された以下のメニューが参考になりますが、このコース構成を見るだけでも、意志の強さと遊び心、豪胆さとしなやかさが同居した心踊るコース構成になっています。
- 香港最高の焼物師 梁シェフ自慢の「子豚の丸焼き」
- 25年もの紹興酒を飲んだ酔っ払い活き海老
- 八ヶ岳の鶏おやじ、こだわり地鶏の白子と烏骨鶏澄ましスープ
- 龍天門焼き物台より 焼き物の盛り合わせ 酢漬野菜を添えて
- 千葉県八千代台よりさきほど届いた中国野菜
- 香港飲茶 五目おこわの蒸し饅頭
- 龍天門陳総料理長 就任祝いの特大金魚型のマンゴープリン
- ビンテージ物のプーアル茶 香港より愛をこめて
新メニューは10月15日から提供されたばかりですが、以前のように白紙メニューもまた期待されるところです。
死角はあるのか
このように述べていると、よいところだらけに思えますが、龍天門に何か死角のようなものはないのでしょうか。
もしもあるとすれば、時期的に今年のミシュランガイドで評価されることが難しいということが挙げられるかも知れませんが、ウェスティンホテル東京が龍天門と同じく力を入れており、「なぜ鉄板会席が生まれ、なぜ幻の神子原米が提供されるのか?」でもご紹介した鉄板焼「恵比寿」が龍天門と同時に来年のミシュランガイドで星を戻すようなことがあるとすれば、それこそより研ぎ澄まされた美しい物語として紡がれることになるのではないかと楽しみにしているのですが、そもそも陳氏が正式に就任してからまだ数日しか経っていないにも関わらず、記事だけでなく希望まで展開することは、いささか性急であるように思われそうですが、後から振り返った時に、これが単なる1人の料理人の復帰劇としてではなく、新しい広東料理の始まりだとして歴史に銘記されるのであれば、これは慌てなければならない大きな事件であると言えるのです。
情報
詳しくは公式サイトをご確認ください。
元記事
レストラン図鑑に元記事が掲載されています。