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『君が心をくれたから』が屈指の名ドラマだったと言えるわけ ドラマが示した「奇跡」の本当の意味

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:REX/アフロ)

以下、ドラマ『君が心をくれたから』の結末までをふまえた考察です。

最後の部分までしっかりネタバレしています。

『君が心をくれたから』は心動かされる「おとぎ話」だった

永野芽郁と山田裕貴のドラマ『君が心をくれたから』は最後まで通して見て、やっと腑に落ちるドラマであった。

最終話を見て、ああ、そういうことか、と、ぶんぶんと首を縦に振って振って、くらくらしてから、しみじみと納得した。

人はいつか死ぬ。

それをどう受け入れるのか。

そのあたりを描いたドラマであった。

おとぎ話でもある。カタカナで言うとファンタジー。

この世ならざるものが出てきて、物語を司る。そういう世界であった。

恋愛ドラマのように仕立ててあった序盤

ドラマの序盤は恋愛色が強かった。

二人、惹かれ合いながらも行き違う。

ぎこちなく近づくが、決定的な仲にはならない。でもお互いのことをおもっている。

高校の放送室を占拠して一方的に彼女を励ますが教員たちに排除されたり、一人去っていった彼女のバスを延々と追いかけて道端に倒れ込んだり、見たことのあるようなシーンが繰り返された。

あまりにベタな展開は、これは恋愛ドラマではない、というお知らせなのだろうな、とおもって眺めるしかなかった。

人を逸らさないドラマ

もどかしいドラマであった。

もっとわかりやすい展開(恋愛ドラマらしいわかりやすさ)を求めていた人たちは、たぶん、3話くらいで耐えられなくなって離脱していったとおもう。しかたがない。

でも、ずっと見続けていた。

目が離せなかったからだ。人を逸らさないドラマであった。

でも途中では狙いがわからない。

交通事故もまた「天の意志」

ドラマは第一話で、太陽くん(山田裕貴)がクルマに跳ねられ、瀕死の重傷を負う。

というかそのまま死んでしまうはずの事故であった。

この事故に関する詳細は、つまり、誰が轢いたのか、助けはどうしたのか、ひき逃げなら警察はどう動いたのか、そのあたりはまったく触れられない。

それは、おそらくファンタジーだから、である。

ふつうの交通事故ではなく、「天の意志」が突風のようにただ彼を薙ぎ倒したにすぎなかった、ということのようだ。

天のきまぐれはさらにひとつ捻られる

気まぐれに、彼は大晦日の夜に天に召されたのだ。(この場合の天は、西洋宗教的ではない東洋思想的な意味で使っているつもりである)

天の気まぐれで太陽くんは殺されかけ、さらに「恋人が自己犠牲的に生きるのなら、彼の命は助ける」と気まぐれはひとつ捻られる。

恋人の雨(永野芽郁)の願いによって、彼の命は救われる。

その代償として3カ月をかけ、彼女の五感が奪われる。

味覚、嗅覚、触覚、視覚、聴覚の順に引き剥がされ、彼女は人がましく生きられなくなる。

中盤は、黙って彼女がそれを受け入れていくのを眺めるだけのドラマであった。

宗教的な意味においての「受難」のドラマだと言える。

「天」は容赦なく奪う

「天」とは人に厚く恵みをもたらすものであり、同時に容赦なく奪うものでもある。

何を考えているかわからない圧倒的で暴力的な存在だ。

「なぜ、あの災害のとき、あの人が死んで、私は生き残ったのだ」と問いかけても、答えは出ない。天は答えない。

現実が事実である。それしか言えない。

おとぎ話ではただ「案内人」と呼ばれる

ドラマでは「天」とは言われていない。

HPでは「あの世からの案内人」として日下(斎藤工)と千秋(松本若菜)が紹介されている。「あの世からの」という具体的な言葉はでもドラマでは使われない。

「案内人」と言うばかりである。

人が関われない存在を擬人化して、つまり「おとぎ話」の手法を採って、物語は進んでいく。

受け身の人は強い

このドラマの芯には、騙されてもいいから流れに乗る、という態度がある。

受け身である。

ヒロインの雨(永野芽郁)の基本姿勢は受け身であった。

ただ「受け身」でいることというのは「とりあえず覚悟を決めて流されていくこと」であり、何もしていないようで、かなりの胆力はいる。

そういう力を持っている人は強い。

『君が心をくれたから』は「リアルタイムで考察する人たち」をさらっと拒否する(というか流していく)ドラマだったのかもしれない。

最終話に起こった逆転

そして最終11話で、逆転が起こる。

ぼんやり見ていた私は、まんまと騙されて心地良い。

自分の身を挺して恋人を救った雨ちゃんの五感がひとつずつ剥がされるさまを見ていたので、「失われていくもの」にばかり注目してしまう。

かなりきつかった。

最後の最後にもう一回「奇跡」が起こらないかなあ、二人がハッピーになる道はないのだろうかと、そういう恋愛ドラマ脳らしい期待を持って見ていた。

でもそうはならなかった。

世界と遮断され反転する

「奇跡」は、最終話には起こらない。

「もともとあった世界線」に戻って、日常が続いた。

奇跡はすでに起こっていたのだ。

最終話、3月末、雨ちゃんからすべての感覚が奪われ、現実世界と遮断されたとき、世界が反転した。

太陽くんは選択を迫られ、「もとどおり」自分が死んでしまい、雨ちゃんが生き続ける道を選んだ。

最後に選ばれたのは、もともと天によって決められた12月の運命に従うというものだった。

奇跡とは、死ぬはずだった命を助ける、というものではなかった。

死ぬはずだった命を3か月延ばす、という奇跡だったのだ。

奇跡は大晦日に起こって、3月末に終わった。

だから得心した。

「12月31日に突然に死ぬはずだった太陽くんが、時間の区切りを意識しながら3月31日まで生き延びたこと」、その3か月の延命が奇跡だったのだ。

死は避けられない、ただそれだけの話

突然の死は、まわりのものを茫然とさせる。

死ぬことを意識した会話もなければ、この人がいなくなるかもとしれないと想像することもない。

でも、この奇跡によって、それを意識して、二人は生きた。

そういうドラマだった。

人は誰だって死ぬ。

死は避けられない。ただどう生きるかは変えられる。

文章にしてしまうとこれだけのことを、3か月かけて、胸揺さぶりながら、ドラマに仕立てていた。

若い母との会話に泣かされた

もちろん現実世界ではありえない。おとぎ話だ。

でも、そこにはいろんな真理がふくまれている。

人の生死を描いて、素敵なドラマだったとおもう。

恋愛ドラマだと信じて見ていた人たちを大きく落胆させながら、それを上回る奇跡を見せてくれた。最終話がそれほど泣かされずにすんだのも良かった。

途中、ぼろぼろ泣いていたのは、松本若菜演じる「若い母」との会話である。私はそういうのに弱いのだ。母もまた自己犠牲に生きた人であった。

人の生き死にを見据えたドラマに揺さぶられていたばかりだった。

リアルタイム視聴で得られたもの

雨ちゃん(永野芽郁)が、すべて受け入れる、という強い態度を保ったところが物語の大事な芯だったのだろう。

途中、見ているほうも何だかわからないけど、ただ受け入れるように眺めているばかりだった。するとドラマが近寄ってきてくれた。

主人公と同じような「受け身の気分」で見ていれば、ドラマがしみとおってきた。

そこがこのドラマの芯であったとおもう。

ほぼリアルタイムで全話を見て、とてもよかったとおもう。

そういうドラマ本来の力を示そうとした作品でもあったようだ。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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