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「爆音に空を見上げる日々が続く」 沖縄・米軍機部品落下事故から1年

宮本聖二立教大学 特任教授 / 日本ファクトチェックセンター副編集長
米軍機が近づくたびに避難する児童たち〜宜野湾市・普天間第二小学校

おびやかされた子どもの命

 2017年12月沖縄・宜野湾市の米軍普天間飛行場のそばにある保育園と小学校に海兵隊のヘリコプターの部品が落下する事故が相次いで起きてちょうど1年になる。12月13日、基地に隣接する宜野湾市立普天間第二小学校では、重さ7.7キロのヘリの金属製の窓枠が校庭で遊ぶ子どもたちのそばに落ちた。

宜野湾市立普天間第二小学校の校庭に落下した米軍ヘリの窓枠
宜野湾市立普天間第二小学校の校庭に落下した米軍ヘリの窓枠

 米軍は数日間休止させただけでヘリの飛行を再開。そして、学校周辺を避けることなく飛び続けるため、防衛省が配置した監視員が軍用機が学校に近づくたびに校庭にいる子どもたちを数百回にわたって避難させる異常事態が続いた。

 この事故の6日前の12月7日には、滑走路から300mほど離れた位置にある緑ヶ丘保育園で、やはり子どもたちが園庭で遊んでいるときに普天間基地所属のヘリの部品が園舎の屋根に落下した。これら教育機関に子どもを通わせる保護者を始め関係者や地域の人々は再び事故が起こることへの不安を抱えて爆音に空を見上げる日々が続く。

緑ヶ丘保育園園舎の屋根に落ちたヘリの部品(左下)(金井創さん提供)
緑ヶ丘保育園園舎の屋根に落ちたヘリの部品(左下)(金井創さん提供)

ショックを受けた幼子の言葉

 この夏、琉球新報社の玉城江梨子記者とともに屋根にヘリの部品が落ちた緑ヶ丘保育園を訪ね、子どもを通わせているお母さんがたを取材させていただくことができた。その一人、知念涼子さんは事故のときに保育園にいた我が子が数日経ってから放った言葉にショックを受けたという。

 「子どもが、飛行機という言葉がわかっているのに、ドーンだよね、ドーンが来たよねという言葉を発した。この言葉で、私はもう許せないと思って。この子たちが成人したときに同じ状況をずっと続けさせてはいけないなというふうに思った。二、三日後にその言葉が出てきて、それなりに心に刻んでしまったということに関して、やっぱり私は許せないなと思いました。」

 知念さん自身は、生まれも育ちも普天間飛行場のすぐ横。子どもの頃は隣に住むアメリカ人の子たちと遊び、窓を開けていれば早朝ランニングする兵士たちの掛け声が心地よく聞こえていたという。しかし、母になり、子どもに危険が及ぶような事故が起きたことで基地が命に関わる危険な存在に一変したのだ。

闇に向かってボールを投げているみたい

 軍用機が学校や保育園周辺を飛び続ける事態を少しでもなくしたいと、緑ヶ丘保育園の人々は上京して国に訴えた。内閣府、外務省、防衛省を回って要望を突きつけた。

 「日本政府としてどうしてくれるんですか。今どういう対応をしているんですか。かなりきつい言葉で私たちも質問したんですけど、三者三様、米軍の調査待ちです、結果待ちですという言葉だったので、何か私としては、今どこにいるんだろうというか、日本の中にいて日本政府と話をしているのに、何で日本政府は、自分たちを主語として、どういった行動を取りますとか、今どういう状況で私たちはこういう対応をして米軍と向かい合っているんです、という言葉が言えないのかなと思って、この国って国なのかなということ思った。じゃあ、私たちは、米軍の調査待ちというんだったら、米軍に対して言うべきなんですか。何と言うのか、ボールを投げているんだけど、ボールが返ってくる気配をそのときに全く感じなくて、闇にボールを投げているような気になって。」知念さんたちは深く失望させられた。

子どもを緑ヶ丘保育園に通わせている知念涼子さん
子どもを緑ヶ丘保育園に通わせている知念涼子さん

さらに傷ついたひぼう中傷の言葉

 緑ヶ丘保育園の関係者をさらに傷つけたのは、被害者である自分たちに向けられたひぼう中傷の言葉であった。

 保育園の事故では落下させたことを米軍側が認めなかったこともあって、「保育園側の自作自演だろう、嘘をつくな」などという電話やメールが緑ヶ丘保育園に、普天間第二小学校にも「基地のそばにある方が悪い、なぜ移転しない」などの発言が投げつけられた。 

 知念さんは語る。

「何に傷ついたって、言葉の荒さに傷つくんですよ。次に来たのは、あきれたというか、よくそんな発想があるねというのが来ました。何でそういうことをやる必要があるのというのも含めて思ったんですけど。さらに思ったのは、まずこっちに来て、上を見て、上。落ちる可能性があるのが飛んでいるんだから。ひぼう中傷、要は「自作自演」と言うけど、将来(また)起こるかもしれんさ。まずそれを考えてと。今はちょっと(自分が)強くなったんだと思います。」

 オスプレイの普天間飛行場への配備が大きな問題になった頃から、米軍基地の存在が人々の命に危険を及ぼすという観点からの基地撤去や整理縮小を語ることに対して攻撃する言説がネット上やSNSで数多く見られるようになった。基地をめぐる偽の情報や「沖縄ヘイト」とも言えるひぼう中傷の言葉である。

2017年5月、NHKは報道番組「クローズアップ現代プラス」で沖縄をひぼうするツイッターについての調査結果を紹介した。その中で「沖縄の米軍基地」に関する報道があるたびに沖縄をひぼうする投稿が急増していることがわかった。2017年3 月25日、翁長沖縄県知事が辺野古の埋め立て承認の撤回を明言したニュースが報じられた際、「沖縄」と「基地」の二語を含むツイッター投稿から「反日」、「売国」などひぼうするような単語を含むツイートを抜き出した。その結果、「沖縄」・「基地」を含む投稿を母数とすると、上記のひぼうを連想させる単語を含む投稿が46%に上った。この年の1月と2月の、ひぼうの単語含有率が26.5%なのに対し一気に増えたことになる。さらにこうした投稿は総数も増え続けている。2012年沖縄をひぼうするような投稿が月平均およそ 3500 件だったのに対して、2017年の1月から4月までの月間平均は5万件を超えた。ネットやSNSが外国人や少数者への差別や侮蔑的な投稿が振りまかれる場になっており、沖縄にその矛先が向けられた形だ。

課題解決を遠のかせるデマやひぼう

 こうしたデマと差別的な言説が振りまかれていることを沖縄の人々は敏感に感じ取っている 。

 2017年4月にNHK放送文化研究所が行なった世論調査「復帰45年の沖縄」で、「本土の人々は沖縄の人の気持ちを理解していない」と答えた沖縄の人が70%もいた。さらに「この5年ほどの間に沖縄に対するひぼう中傷が増加したと感じる」とする沖縄県民が60%近くいることも明らかになり沖縄と本土との間の溝がかつてないほど深まっていることがわかった。

 米軍基地が沖縄に過重に偏在しているのは事実で国土のわずか0.6%の沖縄県に日本に存在する米軍基地(専用施設)の70%が集中する。

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 基地がもたらす様々な事態を解決していくには、国民全体でその負担をどう減らしていくのかを考えていかなければならないはずで、本土と沖縄、特に基地の問題に直面する人々との間に横たわる溝を埋めていかなければならない。メディアにその営みが求められているのだと思う。

当事者だからこそ“東京”で語る

 この秋、大学院での教え子が「自分の働く保育園の園長先生は、先生(筆者のこと)の仕事に関わっているのでは」と連絡してきた。その人は、平良嘉男さんという沖縄出身の67歳の男性。東京にある保育園の園長を務めている。

 平良さんは、1959年6月30日沖縄県石川市(現うるま市)の宮森小学校に米軍戦闘機が墜落して子どもたちをはじめ多くの死傷者を出した事故を2年生で体験した方で、10年前まさにその宮森小学校の校長先生を勤めていた。普天間での事故が相次いだことを受けて、筆者は、地元の琉球新報社の取材班とともに実際に学校に戦闘機が落ちたこの事故を振り返る記事やコンテンツを制作していたのだった。

奪われた幼い命〜沖縄・宮森小学校米軍ジェット機墜落事故〜

 平良さんにはぜひ話を聞きたいと思っていたのだが、連絡先がわからず取材できなかった。この偶然の接点には驚いてしまった。ただ、すでにコンテンツを制作して配信が終わっていたのだが、ぜひお会いして話が聞きたいとお願いしたところ、平良さんは大学の研究室に筆者を訪ねてくださった。

 平良さんは、宮森小学校の校長になったことをきっかけに、それまでほとんど語ったことのなかった事故の体験を子どもたちやその保護者に話すようになったという。それは、宮森小学校の事故が風化していることを感じたからであった。ある日、観光で沖縄に来た人が宮森小学校を訪ねて来たことがあった。

 平良さんは、資料を見せながら事故のことを伝えたところ、「その本土から来た人は、この事故のことを知らなかった、申し訳なかったと涙ながらにおっしゃたんですね。私は言いました、皆さんのせいではないです。今まで知らされていなかったんです、どうぞ本土に戻られたらみんなに話してください。」と伝えたそうだ。そしてその校長時代、沖縄県内のみならず本土にも赴いてこの事故と基地が大規模に沖縄に存在することになった歴史を語って歩いたという。さらに2014年には宮森小学校の事故の体験をまとめた「学校に米軍機が落ちた〜宮森六三○ 生還者のメッセージ〜」という証言集を出版している。

平良さんが出版した宮森小学校事故の証言集
平良さんが出版した宮森小学校事故の証言集

 平良さんが60代半ばにして上京した理由は、こうした体験の延長線上にある。宮森小学校米軍機墜落事故のこと、沖縄の歴史を知ってもらうには県内に座していては限界があると考えたのだ。退職後まず兵庫県の保育園に再就職して4年間園長を務めた。その間に語り部として活動。さらに日本の中心はやはり東京だろうと考え、自ら応募して今の東京の保育園の園長に着任した。

 平良さんは、「沖縄も含めて例えば被差別部落の方々、在日の方々など差別がある中では、当事者が語らないと道がひらけないと思うのです。」と穏やかな口ぶりではあるが、私たちの社会に存在する沖縄に対するものも含めた“差別”に言及した。

「“いちゃりばちょーでー ぬーんひだてぃぬあが”という言葉が沖縄にあります。“出会えば皆兄弟、何人も差別してはならない”という意味です。その言葉から考えると、沖縄の問題は、皆の、日本全体の問題であり、地球の問題でもある。ならば、東京はそうしたことを考える、見える格好の場だと思うのです。」平良さんはそう語った。

 この東京の保育園での仕事に慣れたところで、語り部の活動を本格化したいという。

“沖縄”を知ることから始められないか

 12月14日、国は沖縄県の反対を押し切って名護市辺野古沖に新たな基地を建設するため海中への土砂の投入を始めた。辺野古での基地建設の是非が争点になった沖縄県知事選で玉城デニー知事が誕生したばかり、わずか2ヶ月半前に示された建設反対の民意を踏みにじるものだ。また、沖縄の歩んだ過酷な歴史を全く顧みない行為といえる。

 沖縄に大規模な米軍基地が存在するのは間違いなく沖縄戦を起点にしている。

動画:5分で知る沖縄 戦後の基地拡大

 戦後73年も、そして復帰から46年が経過してもなお米軍基地の大幅な整理縮小は進まない。20年以上前に合意された返還が実現しない普天間飛行場を始め、基地の整理縮小が進まないことへの沖縄の人々の苛立ち、失望感は高まっている。沖縄の人々にとって沖縄戦以来の軍事基地化が一向に変わった気がしないからだ。辺野古新基地建設は、多くの沖縄の人々の心を締め付けている。大幅に減らなかったにしても、復帰後は大きな基地が新たに作られることがなかったのだ。

 そこに大規模なしかも恒久的な基地が海を埋め立てて現れようとしているのだから。

 辺野古の新基地は、沖縄が永続的に基地の島であり続けるということを象徴する存在にもなる。緑ヶ丘保育園の知念涼子さんの言葉にあるように、今の子どもたちが成年になっても「基地の島、沖縄」という状況が変わらないことに他ならない。

 沖縄の米軍基地は、「日米安保」という国家間の条約に基づいて存在しており、国民の多くがこの安保体制を支持している以上、日本人全員が米軍基地問題の当事者であると言える。

 NHKの世論調査「復帰 45 年沖縄」では、米軍基地の存在について「必要だ」、「やむをえない」と考える沖縄の人が 44%にのぼり、「安保条約」についても65%の沖縄県民が日本の平和と安全のためには重要だと考えていることがわかった。

 沖縄の人々が70年以上にわたって大規模な基地を負担して来たことに向き合い、その整理・縮小をどう進め、どのように負担を分かち合うのかを国民全体で考えなければならないはず。

 その時は、沖縄戦で県民の4人に1人の命が奪われ、自治を制限された上に基地拡大のために集落ごと強制収用されるなど人権が抑圧された米軍・民政府による占領統治が27年間続いた「沖縄現代史」への真摯な眼差しを持つことが求められる。

 東京に居を移した平良嘉男さんは、まさにこの歴史を事実として本土の人々と共有したいと願っているだけなのだ。

立教大学 特任教授 / 日本ファクトチェックセンター副編集長

早稲田大学法学部卒業後NHK入社 沖縄放送局で沖縄戦や基地問題のドキュメンタリーなどを制作。アジアセンター、報道局チーフプロデューサーをへて、「戦争証言プロジェクト」・「東日本大震災証言プロジェクト」編集責任者として番組とデジタルアーカイブを連携させる取り組みで、第37回、39回の放送文化基金賞受賞。その後、Yahoo!ニュースプロデューサーとして全国の戦争体験を収集する「未来に残す戦争の記憶」の制作にあたる。2023年から日本ファクトチェックセンター副編集長として、ファクトチェックとリテラシー教育に取り組む。立教大学大学院 特任教授 デジタルアーカイブ学会理事 及び 地域アーカイブ部会会長

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