まず若者を連れ去った〜45万の命を奪った日本空襲〜 #戦争の記憶
戦後78年。
各社の記事やこれまでアーカイブされてきたコンテンツで、日本人と戦争を特に空襲と若者、メディアに焦点を当てて見つめてみます。
戦争の末期は、日本本土そのものが戦場となり激しい空襲が都市を街を焼け野原にしました。
78年後の今も、激しい火焔や焼け落ちるふるさと、失った家族や友だちの記憶、あるいは自ら負った火傷に苦しむ人がいます。
空襲は、まず多くの勤労動員の若者が働く軍需工場が標的になり、その後は無差別爆撃となり、45万人を超える犠牲者が出ました。
終戦の前日の8月14日、アジア最大の兵器工場、大阪砲兵工廠を標的に大規模な空襲が行われました。
ここでは、1万人以上の勤労動員の10代の若者が働いていました。
関西ラジオが、大阪砲兵工廠に勤労動員された男性に取材をしました。
なぜ、日本が戦争をすることに疑問を持たなかったのか、黒焦げの遺体を運びながら何を思ったのか、メディアのプロパガンダに騙されたと言います。
終戦前日の空襲〜誰に騙されたのか 関西ラジオ
この照屋さんが経験した、終戦前日の大阪京橋への空襲は300人以上の命を奪いました。
勤労動員され生き残った人々を取材した番組で、さらに詳しく知ってください。
2009年にNHKで制作された番組です。
空襲について
ここで、空襲について概観してみましょう。
飛行機が発明されると、すぐに戦争に使われるようになりました。
第一次世界大戦では、複葉機に爆弾を吊るして敵陣に落とすものでした。また、地上に銃撃を加えることも行われました。
空襲は、空からの爆撃や銃撃ですので、基地や兵士だけでなく一般の人も被害を受けます。
「太平洋戦争と空襲」(NHK戦争証言アーカイブス)を参照ください。
さらに、空襲をあえて市民に行うことで街や暮らしを破壊し、命を奪って相手の国を疲弊させて優位に立とうという「戦略爆撃」「無差別爆撃」も行われるようになりました。
1937年には、スペイン内戦中にスペイン北部の都市・ゲルニカをフランコ政権を支援する目的でドイツ空軍が爆撃、これが史上初の無差別都市爆撃と呼ばれています。
日中戦争では、日本の陸海軍が中国国民党が首都とした重慶を繰り返し空襲しました。1938年から43年まで数十回の空襲で12,000人が犠牲になったと言われています。
日本のメディア、「日本ニュース」がこの空襲を繰り返し取材して、人々は映画館で見ていました。
この空襲については、この後も「日本ニュース」で何度も報じています。
検閲と指導で、全ての空襲は成功して損害は全くないと伝え続けるしかなかったのです。
空襲は子どもの生命を奪った
日本本土への初空襲は、1942年4月18日でした。
真珠湾攻撃、グアム、フィリピンを失う敗北続きで、なんとか国民の士気を高めたいというアメリカ・ルーズベルト大統領の指示で行われた「ドゥーリトル空襲」です。
ドゥーリトルというのは、この空襲の指揮官の名前です。
日本本土を空襲するための拠点がなかったために、陸軍の双発の爆撃機を空母に載せて、日本に接近、そこから爆撃機が日本に向かい、空母はハワイに踵を返すので、中国に逃れるという作戦でした。
この空襲で東京では、小学生と中学生が命を落としています。
Yahoo!ニュース制作です。
このドゥーリトル空襲では、市民も含めて500人を超す死傷者が出ました。
空襲をめぐるプロパガンダ
日米は、この空襲をめぐってプロパガンダを行います。
日本はニュース映画で、アメリカは劇映画を作ります。
日本は、この空襲後中国に不時着して捕虜になった将兵を登場させて、日本への空襲で市民に被害が出れば死刑にすると宣言するのです。つまり、今後の日本空襲を躊躇させようとしたわけです。
一方、中国で捕虜になったドゥーリトル隊のうち8人の搭乗員は、そのうち3人が処刑されました。無差別の攻撃をすると犯罪として裁き極刑に処すという日本軍の方針を打ち出し、それをアメリカに伝えたのです。
日本への容赦ない空襲を宣言したアメリカ
しかし、その後アメリカは、このドゥーリトル隊の搭乗員を主人公に劇映画パープルハートを作り、44年3月に公開します。
20世紀フォックスの製作です。
映画の最後の部分をご覧ください。
日本によるドゥーリトル隊搭乗員への死刑宣告に対するアメリカの返答です。
最後に、機長が法廷でこう発言します。
「お前らは、俺たち全員、あるいは何人かを殺すことができる。
しかし、このことでアメリカがおそれをなしてお前らの元にさらに飛行機を送る
こと、爆撃することをやめるだろうと考えるなら、それは間違いだ。
とんでもない間違いだ。」
「何千もの爆撃機が昼も夜もやってきて、お前らの空を真っ黒に覆うだろう。
お前らの住む街をただの地べたにすべく焼き尽くしてしまうだろう、
そして、お前らはひざまずいて俺たちの慈悲を乞うようになる。」
「これは、お前らの戦争なんだ、お前らが望んではじめた戦争なんだ。」
「それ(空襲)はすぐにも始まるだろう。お前らの薄汚いちっぽけな帝国とやらが
この地球上からすっかり消え去るまで、終わることはないはずだ。」
アメリカでは、この映画を見て拍手喝采を送った人々が戦時公債を買い、その資金などでB29爆撃機を製造します。
この機長の言葉をアメリカはそのまま実行したのです。
映画公開から1年後の45年3月、まさに東京上空はB29に覆われ、10万人が殺され焼け野原になりました。
B29初空襲(1944年6月15日)
ドゥーリトル空襲から2年余り。1944年6月、B29の編隊が北九州を襲いました。
アメリカ軍が開発した「超空の要塞(Super Fortress)」と呼ばれるB29は、最大で9トンの爆弾や焼夷弾を積み、航続距離は5000キロを超える、史上最大の爆撃機でした。
この時の空襲も日本ニュースで報じています。
サイパンやテニアンの出撃基地が整備される前、この時は中国の四川省成都からやってきました。航続距離の関係でギリギリ往復できる北九州の八幡製鉄所が標的でした。
ニュースでは、B29を7機撃墜したと報じています。
この時は、八幡製鉄所の被害は少なかったものの、隣の小倉市(当時)にあった兵器工場の小倉陸軍造兵廠に爆弾が落とされて、防空壕を直撃しました。
勤労動員の若者の命を奪った北九州空襲 Yahoo!ニュース
無差別爆撃の開始〜東京大空襲〜(1945年3月10日)
当初は飛行機工場や基地など軍事に関わる施設を標的にしていました。
しかし、アメリカ軍は1945年3月からは焼夷弾で街を焼き払う事実上の無差別爆撃に方針を変えました。
3月10日、東京の下町に大量の焼夷弾を投下して10万人もの死者が出ました。いわゆる「東京大空襲」です。
下町は、木造家屋が密集していたために、焼夷弾で次々に火が燃え移り、冬の季節風もあって火焔風が発生して人々を焼き尽くしたのです。
当時国民学校2年生だった、二瓶治代さんは、両親と妹の4人で逃げ惑いました。
今も3月9日に別れてその後会うことのなかった友だちのことを思い続けて、「東京大空襲資料センター」を拠点に語り継ぎを行っています。
「あの子たちは、今もいつものような明日が来ると思っているはずです。いつもの明日が来るという社会を守り続けなくてはいけないんだと思っています。」
空襲と原発事故
東北有数の工業地帯、福島県郡山市は軍需に関わる工場が多かったため空襲の標的になりました。
そうした工場には、戦場に取られた従業員に代わって数多くの中学生、女学校生が勤労動員で働いていました。
1945年4月12日、昼200機ものB29の編隊が郡山上空に姿を現して次々に爆弾を投下しました。
郡山の工場に、100キロも離れた南相馬の原町高等女学校から日東紡績に派遣されていた日高美奈子さんは、逃げ惑いました。
その後、故郷の南相馬の原町に戻りました。
日高さんは、66年後の2011年、福島第一原発事故で長期にわたる避難を余儀なくされました。
福島中央テレビの協力を得てYahoo!ニュースが制作しました。
震災から66年前、1000人が死んだ〜岩手・釜石〜
2011年の東日本大震災で1000人を超す死者行方不明を出した岩手・釜石市は、その66年前には戦争でも1000人以上の犠牲者を出していました。
これは、近づいた軍艦による艦砲射撃によるものです。
戦争末期、日本本土の制海、制空権は完全に連合軍に奪われ、イギリス、アメリカの海軍の艦隊が容易に沿岸に近づけるようになりました。
そして、日本の産業や軍事施設の息の根を止めようと各地に艦砲射撃を加えました。
釜石は鉄の街で、製鉄所を狙ったのです。
Yahoo!ニュースの制作です。
艦砲射撃を生き延びた千田ハルさんは、この艦砲射撃を伝える様々なモノを集めた資料館設立を市に働きかけて、2010年、釜石市戦災資料館が開館しました。
しかし、1年も経たないうちに東日本大震災の津波に飲まれてしまいました。
千田さんは、こう語りました。
「戦争とこういう自然災害って、同じ犠牲でないかっていう人がいるけど、それは違うんですよね。戦争は避けられるんですもん、絶対。
その気になればね、自然災害に対しては知能とお金を尽くすことができるけど、戦争になったらもうそんなことできないから」
イギリスとアメリカの艦隊による艦砲射撃は、そのほか茨城・日立、北海道・室蘭、静岡・浜松、清水などの製鉄所、車両工場、アルミニウム工場を標的に行われて多くの市民が巻き込まれました。
小学校が標的になった(1945年7月25日)
大分県の保戸島。
この島の小学校に1発の爆弾が落とされて、124人の児童と3人の教員の命が失われました。
全校児童500人、4人に一人が死んでしまいました。
空母艦載機が、始業したばかりの学校に爆弾を落としました。
崩れ落ちた校舎の下敷きになった子どもたち、そこにさらに機銃掃射が行われました。
1年生と5年生の全員が犠牲になりました。
NHKが2009年夏にドキュメンタリーを制作しています。
まとめとして
空襲は、終戦の8月15日まで続き、推定で45万人もの命を奪いました。
住む家を失った人は、数百万人に上り、家族を失って天涯孤独になった人も大勢います。
戦後78年、その後も朝鮮戦争、ベトナム戦争、シリアなどの内戦、そしてロシアのウクライナ侵攻、空からの攻撃で命を失う人が絶えません。
「命を最も大切に考える」、そのことを共有して平和を保つ、そのためにもこうした経験に耳を傾け続ける必要があるのではないでしょうか。
今回は、デジタルアーカイブされている記事やコンテンツで構成しました。
戦争を学び平和のかけがえのなさを知る、そのためにご家族などで活用ください。
【この記事は、Yahoo!ニュース エキスパート オーサー編集部とオーサーが共同で企画したキュレーション記事です。キュレーション記事は、ひとつのテーマに関連する複数の記事をオーサーが選び、まとめたものです】