今年は里山命名600周年! 改めて里山について考える
気がついたら、今年は「里山命名600周年」だった。
なんのことやら、と思われるかもしれないが、里山という言葉が登場するもっとも古い記録は、播磨の国の「九条家文書」1418年(応永25年)9月の文書なのだ。つまり、ちょうど600年前。
ついでに言えば、「棚田」という語が登場するもっとも古い記録は、1338年の紀伊の国志富田荘の検注帳。こちらは680年前になる。どちらも区切りがよい。
(いずれも水野章二著の『里山の成立』より。)
これは記念しなければなりません。今年は里山命名600周年、棚田命名680周年として盛大に祝えないか。
今や「里山」は人気を集めている。単なる田園風景としてだけではなく、そこに生息する草木や鳥獣、昆虫、淡水魚なども含めて、愛好する人が増えた。里山と聞くだけで、何か郷愁的なイメージが湧くようになったのである。
そして自然を持続的に利用するモデルとして高く評価されるようになったのはつい最近のことだ。2010年には、環境省が生物多様性条約第10回締結国会議で「SATOYAMAイニシアティブ」として世界に発信し、豊かな生物多様性や自然の持続的利用のアイデアが備わっている空間だと打ち上げた。おかげで「里山」は世界的な用語になったと言えるだろう。
ただ実態としての里山の歴史を遡ると、里山の成立は、はるか古い。
何も文書に登場したことで里山が生まれたわけではない。里山の定義を明確にさせるのは複雑だが、「農業などの営みによって人が関わって作り出された二次的自然」という広義の里山の定義を当てはめたら、縄文時代から里山は成立していたことになるかもしれない。各地の集落に定住化が進めば、当然周辺の自然に人の手は加わる。そして農耕が広まった弥生時代、古墳時代と進むにつれて、里山は範囲を広げて行ったのだ。
同じく「棚田」も、傾斜地に刻まれてつくられた水田という意味なら、万葉集にも登場するのだから、もっと古い。その際は山田と呼ばれていたらしい。
また文書では、17世紀に入ると、丹波の国山国郷(現在の京都市京北)や佐賀藩、加賀藩、そして木曽地方の村落に近い山を里山と読んでいた記録もあり、江戸時代には広まっていた。
また里山という言葉ではなく、後山、寺家山、地下山などの言葉で示されることも少なくない。ようは、人々が薪を集めたり、落葉や草を刈り取って肥料にするなど日常的に利用してきた山(自然)である。
しかし近代化が進む中で、里山とはあまり使われず裏山、田舎とか中山間地などと表現されて、よいイメージもなかった。学問的にも、そこに「本物の自然」はなく、人が改変した程度の悪い自然しかないように思われていた。
そのイメージを一新したのは、林学者の四手井綱英氏だと思われる。
人里に近く農業の営みに関わる山には独特の生態系が生まれていることを指摘し、原生林の広がる山奥の「奥山」に対して農地近くにある農用林を「里山」と名付けたとされる。忘れられつつあった「里山」という語を復活させたのだ。それが1960年代ではなかったか。
その後、里山の定義は少しずつ広がり、山の森だけでなく棚田や段々畑といった農地を含み、さらに萱場や溜池、用水路、地道まで含んだ景観を指すようになってくる。するとなぜか、郷愁を感じるキーワードになって、人々の注目を集めるようになってきた。今では里山から敷衍して里地とか里海という言葉まで登場している。
ところが研究が進むと、かつての里山に豊かな自然があったことに疑義が出てきて、ほとんどは荒れた草山ではなかったのか、という指摘もされるようになった。人は常に自然を過剰利用して、荒らしてきたというのである。
それが戦後のエネルギー革命(薪炭から化石燃料へ)と農業革命(化学肥料の普及など)によって、里山からの収奪が減少し、自然が回復してきたことによって生まれたのが、現代の里山だという。
定義も実態も変わってきたわけだが、とりあえず「里山命名600周年」を期に、人と自然のあり方を改めて考える機会にしてもよい。