津波に耐えた木造駅舎と鮭を呼んだ石の伝説 三陸鉄道リアス線 津軽石駅(岩手県宮古市)
岩手県大船渡市の盛駅から久慈市の久慈駅まで三陸沿岸を結ぶ三陸鉄道リアス線。全長163キロ、実に41もの駅があるが、古くからの木造駅舎が残るのは津軽石駅と宮古駅の二駅だけだ。これは三陸海岸の険しい地形ゆえに昭和の終わりになるまで鉄道を敷くことができなかったという歴史によるもので、リアス線のうち戦前に建設されていたのは国鉄山田線として開業した釜石~山田間のみだった。この区間は県都盛岡から宮古、陸中山田を経て釜石を結ぶ路線の一部として開業し、戦前は岩手県内陸部と沿岸部を結ぶ唯一の鉄道だった。平成23(2011)年3月11日の東日本大震災による津波では大きな被害を受け、平成31(2019)年3月23日の運行再開に際してJR東日本から三陸鉄道に移管されている。
津軽石駅は昭和10(1935)年11月17日、山田線が宮古から陸中山田まで延伸した際に開設された。当時の所在地は下閉伊郡津軽石村で、昭和30(1955)年4月1日に宮古市に編入されている。駅舎は開業時のもので、今年で築88年。山田線の陸中川井駅にも似たデザインの駅舎が残っている。山田線には近年まで木造駅舎が多く残っていたが、建て替えや震災で姿を消し、残っているのはほんのわずかだ。
なにも知らなければ青森県津軽地方にあるのかと思ってしまいそうな「津軽石」という地名の由来にはもちろん津軽地方が関係している。室町末期の享禄元(1528)年、この地域に新しく領主として入った一戸行政(いちのへ・ゆきまさ)が津軽の浅瀬石(あせいし)明神のご神体だった奇石を勧請した。当時、浅瀬石川(現在の青森県黒石市)は鮭の豊かな川として知られており、その御利益にあやかろうと石を津軽から当地の丸長川に持ってきたところ、鮭が川からはみ出すほどに多く遡上するようになったとされる。津軽から持って来た石にちなんで、丸長川は津軽石川と呼ばれるようになり、地名も「津軽石」となった。津軽から石を持って来させた領主の一戸氏(南部地方を治めた南部氏の分家)も津軽石氏を名乗るようになり、現在でも岩手県を中心に「津軽石」という苗字が少数ながら分布している。津軽石川は現在、本州で最も多くの鮭が遡上する川として知られており、つかみ捕りや即売会などが行われる鮭祭りも毎年行われている。
そんな鮭の名産地にちなみ、駅舎内には地域住民が新巻鮭のぬいぐるみが吊り下げられている。新巻鮭が飾られている駅舎の旧事務室部分は、交流スペースとして使用できるよう改装されており、展示会の会場などとして使われることもある。
駅舎のホーム側入口には木彫りの鮭のモニュメントも置かれている。三陸鉄道の駅には盛岡市の植野義水さんが寄贈した木彫りの生き物が置かれており、これもその一つだ。震災の津波で久慈市の海岸に打ち上げられたケヤキの大木から彫り出したもので、令和元(2019)年8月31日に駅に設置された。
駅のある鮭はそれだけではない。駅舎内には鮭の剥製も飾られている。この剥製は宮古市立赤前小学校の元校長・岩淵四郎先生が昭和56(1981)年から58年の在職中に制作したもので、鮭の町をPRするため駅に寄贈されることになった。校長先生がつくったということで、おそらく元は小学校に飾られていたのだろう。赤前小学校は令和4(2022)年3月31日に閉校となり、146年の歴史に幕を下ろしている。
新巻鮭のぬいぐるみに木彫りの鮭、そして鮭の剥製と、鮭づくしな駅舎だが、12年前の震災では浸水被害を受けた。駅舎の入口横には津波の来た高さを示す看板が掲げられている。震災では倒壊した駅舎や津波で押し流された駅舎も多く、そんな中で津波に耐えた津軽石駅は奇跡の存在と言えるだろう。震災が起きた14時46分、駅には盛岡発釜石経由宮古行き1647D列車(キハ100-9+キハ100-12)が停車しており、ちょうど発車しようとしたところで震災に遭遇した。乗員2人と乗客20人はすぐに避難して無事だったが、列車はその後の津波で脱線。7月15日と16日に解体されるまで無残な姿を駅構内に晒し続けていた。山田線はその後、長きに渡って不通となり、津軽石駅に列車が戻ってきたのは8年後のことだった。
津波で浸水した駅舎内は泥だらけになっていたが、運転再開に合わせて改装され、新築同然の美しい姿になっている。地元住民によって清掃されているため、塵一つ落ちていない。昨年公開された新海誠監督の映画『すずめの戸締り』には駅近くの電波塔が登場しており、主人公・鈴芽の故郷は岩手を想定していると新海監督自身が語っている。ただし、映画で鈴芽の最寄り駅として描かれるのは、4駅先の織笠駅だ。
鉄道ファン以外からの人気も高い三陸鉄道に乗って、津波に耐えた駅舎が残る「鮭づくし」の津軽石駅を訪れてみるのはいかがだろう。