どうして信康と瀬名は処刑されたのか?松平信康事件の通説と最近注目の徳川家分裂説
松平信康事件とは徳川家康の嫡男・信康と正室・瀬名が処刑された出来事で、ドラマなどでさまざまな描写がされてきました。嫡男と正室の同時処刑といった衝撃的な事件ながら、信頼できる一次史料のなさから、ハッキリとした事が解明されていません。
そこで今回は、信康事件の通説と最近注目されている説なども紹介していきます。
信康事件は三河物語が一般的な通説
徳川家康・瀬名との間に生まれた松平信康。11歳の時に浜松城に移った家康の代わりに岡崎城主を務めるます。武勇に優れ、家康にも誠の勇将なりと言われるほどでした。
プライベートでは、織田信長の娘・徳姫(五徳)をめとり、二人の姫に恵まれました。当初は仲の良い夫婦でしたが、男子が生まれない事を危惧した瀬名(築山殿)が、旧武田氏から徳川へ臣従した家臣の娘を側室に迎えさせると、信康と徳姫の夫婦仲が悪くなりました。瀬名と徳姫はもともと折り合いが悪く、側室の件でさらに険悪なムードに…
そこで徳姫は積もりに積もった不満を手紙に書き、父・織田信長に届けさせるため酒井忠次に持たせて織田家へと向かわせます。その手紙の内容と言うのが、信康との夫婦関係の愚痴や瀬名の武田氏への内通疑惑でした。
手紙の内容を見た信長は事実関係を酒井忠次に尋ねますが【内容に間違いがない】との事で、信長は【信康を切腹させるようにと家康に伝えよ】と忠次に言いました。家康はわが子に死んでほしくないと思うも、信長の意向に背くわけにもいかず、しかたなく信康を切腹に追い込みます。一方で、武田との内通を疑われていた瀬名は、家康の命で自害を求めますが、彼女が拒否をしたので処刑されました。武将として有能だった信康の死を家康が惜しみ、その一方で信長の指摘に否定をしなった酒井忠次を批判した文章が書かれています。
以上が一般的に知られている、三河物語の信康事件の内容です。
しかし、他の史料を見ると、信長が信康を殺せと命じた記述はなく、徳姫の手紙も文章が女性の書いたものではない事やその存在自体も疑われています。最近の研究では、信長が信康の切腹を促したのではなく、家康が自分で決めたと言うのが定説になりつつあります。
現在の注目されている説は、岡崎衆と浜松衆の対立
この事件については多くの説と研究がなされてますが、近年では大岡弥四郎事件を発端とする、岡崎派と浜松派の家臣団の対立説が出てきました。
大岡弥四郎事件とは、弥四郎が岡崎衆から武田氏内通の同調者を募り、岡崎城でクーデターを計画した事件です。信康は事件に関与していなかったようですが、瀬名はこれに同調していたと言われています。どうする家康でもあったように密告者がいて事なきを得ましたが、実行犯の弥四郎は捕らえられ処刑されます。
また、同調者の中には石川数正の同族で平岩親吉に並ぶ重臣・石川春重が含まれているとされ、つまりこの事件は弥四郎だけにはとどまらず、岡崎城に居るかなり中枢にいる人物たちによって画策された可能性が否定できません。
家忠日記では、信康を岡崎城から追放した後に、松平家忠を始めとする国衆たちに信康との通信を禁止する約束をしています。そのうえ、岡崎周辺を家康自身の兵で固めており深刻な対立があったのではないかと推測できます。弥四郎の保身のために主君を裏切った事件とされていますが、その背景をみると徳川家中で武田氏に対する政策の違いによる対立があるように感じます。
この事件を深掘りしていけば、信康事件の真相に近づけるかもしれませんね。