名古屋伝説のバラエティ番組 制作秘話とテレビの将来を制作者たちが熱く語った!
名古屋テレビ界のレジェンドが語る“あの頃、名古屋は熱かった!”
昭和50年代~平成初期にかけて、名古屋では地元テレビ局制作のバラエティ番組が群雄割拠し、人気を博していました。『ぱろぱろエブリデイ』(CBCテレビ)、『音もダチだぜ!気分はセッション』(東海テレビ)、『オジャマンないと!』(メ~テレ)、『5時SATマガジン』(中京テレビ)などなど。ローカルだからこその反骨心、チャレンジ精神をもってつくられたこれら番組の数々は、時に物議を醸し、時に東京のテレビにも影響を与え、そして常に地元の若者たちを刺激し、楽しませてきました。
去る11月3日、これらの番組を手がけてきた元テレビマンが一堂に会しての座談会が開催されました。題して「名古屋ローカルTVスピリット今むかし」。これは名古屋市が中心になって毎秋に開かれている「やっとかめ文化祭」の一企画。昨年、当サイトでも取り上げた「名古屋ライブハウスの黎明~それは70年代からはじまった~」に続く現代カルチャーをテーマとしたトークイベントです。(「名古屋ライブハウス2大オーナーが語る名古屋音楽シーン『裏話と名(迷)場面』」)
「テレビがつまらない」と言われて久しい昨今、テレビが元気だった時代にローカルである名古屋ではどんな番組がどんな風につくられていたのか? その裏側を知ることで、今一度テレビの可能性と未来を探るヒントが見つかるかもしれません。
【出演者】
〇大庭卓也…CBCテレビOB。報道記者出身ながら『ぱろぱろエブリデイ』(昭和56年~)、『ミックスパイください』(平成2年~)など当時画期的だった夕方のバラエティ番組を手がける
〇澤田健邦…中京テレビOB。『お笑いマンガ道場』(昭和51年)を大ヒットさせた後、世のバンドブームを先取りした『5時SATマガジン』(昭和56年~)で一世を風靡する
〇中島精隆…元東海テレビプロデューサー&ディレクター。音楽や情報バラエティを中心に企画制作し、『音もダチだぜ!気分はセッション』(昭和61年~)、『モータウンパラダイス』(平成4年~)などで名古屋の音楽シーンを盛り上げる
〇松本国昭…メ~テレ(名古屋テレビ)OB。名古屋の街歩き番組の先駆け『オジャマンないと!』(昭和59年~)を制作し、この手法を発展させた『深夜特急』のドラマ版(平成8年)で日本民間放送連盟賞ドラマ部門最優秀賞を受賞
〇柴垣邦夫…中京テレビOB。『5時SATマガジン』などの制作に参加した後、ローカルでは例のなかった平日帯の生放送深夜バラエティ『ラジオdeごめん』(昭和63年~)を企画。
〇西川千雅…日本舞踊名古屋西川流四世家元。今回の企画の立案者であり進行役
年間1億円の赤字でも“若者の心をつかめ!”
西川 「私は今年50歳。子供の頃はCBCテレビの『天才クイズ』で育ち、中学時代は『ぱろぱろエブリデイ』で初めてラジカルという言葉を覚えました。高校時代は『オジャマンないと!』、その後も『音もダチだぜ!気分はセッション』、『ラジオdeごめん』など、名古屋発の手づくり感があってアイデア満載という番組がたくさんありました」
大庭 「『ぱろぱろエブリデイ』以前は、夕方5時台は子供向けにアニメの再放送をどの局も流していた枠。ここに中学生をターゲットとした番組をつくろう!とプロジェクトチームが発足し、報道記者だった私もなぜか招集されたんです。バラエティの経験のない混成部隊でしたが、多感な中学生に向けて先鋭的なことをやらないといけないだろうという思いで取り組みました。白塗りのダンサーが踊る過激なコーナーがあったりしたんですが2回で打ち切りになったり、ラジカルすぎて上からのクレームで片っぱしからコーナーを潰されました。名古屋の芸能プロ出身でこれをきっかけにアイドルとしてブレイクした小出広美がアシスタントで、彼女を主人公としたドラマもつくりましたが、ドラマ出身のディレクターの思い入れが強すぎたのか“意味が分からない”と不評でした。CBCは保守的と思われていますけど、結構先鋭的なことを他局に先駆けてやっているんです。でも長続きせず終わることが少なくない。ぱろぱろも1年半で打ち切り。“自局の汚点、他局の星”といわれました(苦笑)」
澤田 「中京テレビは昭和44年開局で、当時は名古屋の民放では最後発。スポンサーがなかなかつかない苦しい時期が長かったんです。『お笑いマンガ道場』は日本テレビから来たカメラマン出身の部長が、“コママンガを使って番組作れないか”としきりにいうので、“だったらマンガの大喜利しかないですね”と企画書をつくった。番組が始まる前後は中からも外からも酷評されたんですが、2年目には視聴率20%を越え、大ヒット番組になりました。にもかかわらず当時は営業力がなくて、制作費も回収できなかった。それが悔しくて、だったらつくりたいようにつくらせてくれといって企画したのが『5時SATマガジン』でした。これもヒットしたんですが、毎回200万円、年間で1億円の赤字。“1億使って若者の心をつかめ!”なんて記事を業界誌に寄稿したりして、まぁ生意気そのものでした(笑)。東京でも評判になるような番組をつくろう!という思いがあって、それなりに成功したと思います。この頃から中京テレビも営業力がついてきて地元の大手スポンサーを獲得するようになり、番組づくりにも積極的になっていく。そのとっかかりになったのが『5時SAT』でした。地域にかかわる番組をつくりたい、地元が面白いんだという考えもあった。これは現在の『PS純金』(高田純次出演の情報番組。前身の『P.S愛してる』は平成6年開始)にもつながっています」
中島 「バブルに向かう時代で、キー局であるフジテレビが『オールナイトフジ』をはじめ深夜バラエティに強く、それにならって名古屋でも深夜枠を開拓しようと平野文(『うる星やつら』ラムちゃん役などの人気声優)を起用した番組をやったりしたんですが、短命だった。その後、音楽番組をやりたいと考えて始めたのが『音もダチだぜ!気分はセッション』でした。75分番組で毎回ミュージシャンに出演してもらうんですが、当時はゲストを仕込む手練手管もなくて、地元のプロモーターやライブハウス、レコード会社の宣伝部に助けてもらって、こうすればキャンペーンという名目でノーギャラで出演してもらえるんだ、とか学びながらつくっていました。それでも、ローカル番組なんだから地域性が必要だという声もあり、『いなせなラップ天国』という視聴者参加型のコーナーをつくった。手羽先の『世界の山ちゃん』の店長に、メニューを全部ラップで紹介してもらう、なんてこともやっていました」
アベックをのぞき見し、夜遊び娘を高級外車で自宅へ
松本 「地方局というのは極端な話、自分たちで番組をつくらなくても、系列キー局の番組を流すだけで成り立つ。そういう依存体質があったところ、何か自分たちで表現できるものはないかと思っていました。そんな時に大阪・毎日放送の『夜はクネクネ』(昭和58年~)を観て衝撃を受けた。あのねのねの原田伸郎による街頭ロケ番組で、この名古屋版ができないかと思ってつくったのが『オジャマンないと!』です。当時、『ふぞろいの林檎たち』でブレイクしたばかりの柳沢慎吾にアラジン(『完全無欠のロックンローラー』でポプコン・グランプリを獲得)の高原兄、越前屋俵太を起用し、名古屋の街を屋台を引きながら視聴者とからむという番組です。栄の公園でアベックをのぞき見するとか、夜遊びしている女の子を捕まえて高級外車で自宅まで送り届ける『箱入り娘宅急便』なんて企画をやっていました。箱入り娘~では当の女性に自宅へ通報されて、お父さんに烈火のごとく怒られました(苦笑)。今では絶対にできないでしょうが、当時は許されたんですね。『天才たけしの元気が出るテレビ』にもこの番組でやったネタを何本かそっくり盗まれましたよ。スタジオを飛び出して一般の人にしかけて毎回特番のようにつくっていく、アポなしの街歩き番組というスタイルは、現在も続いている『ウドちゃんの旅してゴメン』(平成15年~。ウド鈴木出演)の原点にもなっています」
柴垣 「『笑っていいとも!』のプロデューサーだった横澤彪さんに勝つにはどうすればいいか?と考えて、月~金の帯番組で名古屋に来るタレントは全部そこに出演させようと。そのための枠が必要だということで始めたのが『ラジオdeごめん』です。いかにお金をかけずにつくるか、ばかり考えて、当時中京テレビは郊外にあったので出演者のタクシー代がかからないよう街中でやろう、と。ちょうど雲竜フレックスビルの焼肉店が店で収録させてくれることになったので、窓の外に夜景も見えてセットもいらないし好都合だと思ったんです。ところが、オンエア中の夜中1時になったら街の灯りはほとんど消えちゃうし、そもそも照明を立てたら外の景色は見えない。そんなことも分からないでつくっていました。90分生放送でVTRが1台、タイムキーパーもなし。外国産タバコのスポンサーがついたのに出演者が日本製のタバコをスパスパ吸ってたことも。今考えると乱暴で危険なつくり方をしていましたし、営業にもずい分文句をいわれました(笑)。今はコンプライアンス的にやりにくいことも多いと思うが、私らの場合は予算がないことを逆手にとっていろんなアイデアを出してやっていた。制約のあるところから何か独創的なモノが生まれることもあると思います」
コンプライアンスにSNSの炎上。今、テレビにできることは?
西川 「今はコンプライアンスの遵守など、制約が非常に多く、テレビが昔のように自由にはつくりにくい時代となっています。そんな時代にあって、テレビが目指すべき方向はどんなところにあるのでしょう?」
大庭 「今は名古屋の夕方のニュース番組を見ていても、横並びでどこも同じように見える。私たちの時代は視聴者もロケ先の人も“テレビだからまぁいいだろう”と大目に見てもらえたが、今は逆に“テレビだからこんなことをするのは許せない”と些細なことでもSNSですぐに炎上してしまう。そのせいで忖度したり縮こまってしまうのは怖いなと思います。今は何かと窮屈な時代だろうが、反骨精神を持ってつくっていってほしい」
澤田 「(今、どんな番組をつくりたいか?という質問を受けて)番組づくりって与えられた条件やスタッフの中でつくっていくものだから、仮定では答えられないですね。ひとつの方向性としては、最近テレビ東京がセクションを横断して局内のパパママが参加して幼児番組をやることになった。今までになかったマーケットとターゲットに向けた番組づくりがこれからは必要なのかもしれません。私は今でも、現役のテレビマンよりずっとテレビを観ている。その上でまだテレビの可能性を信じていたいと思っています」
中島 「テレビがやらなくちゃいけないのは生放送をやり続けること。そうすると余計にコンプライアンスが気になって結局予定調和になってしまう恐れもあるが、生の緊迫感、アドリブの面白さが重要。音楽番組なら公開セッションとか、トークショーならありえない組み合わせの対談を提案したい。今だったら大村秀章愛知県知事と河村たかし名古屋市長の討論なんてやれば絶対に緊迫感があって、視聴者が観たいと思えるものになるはずです」
松本 「中京テレビの『5時SAT』は地域の音楽文化を育てたし、メーテレでは私が退職する時に機動戦士ガンダム30周年イベントを開催して4日間で十数万人を動員したりと(ガンダムは名古屋テレビ制作)、番組を通じて地域に文化が育ったんです。それが今ではワイドショーか売れているタレントを起用しての街歩きばかり。地元のタレントを起用することもほとんどない。ローカルのテレビには地域の文化を育てるという役割もある。それを今の若い世代にやってもらいたい」
柴垣 「私たち名古屋のテレビ局OBを中心に、今年、『テレビの旋風(かぜ)』という名古屋初のテレビ番組批評サイトを立ち上げました。今、名古屋のテレビ番組はなかなか全国的に話題にならない。同時に批評にさらされる機会がない。批評される価値があるもの、批評に耐えうるものをつくってもらいたいし、我々は制作者が勇気をふりしぼってつくったものを厳しい目を向けながらも評価し、応援したい。名古屋のテレビに応援の旋風を送りたいと思っています」
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名古屋のミドル世代以上にとっては、青春時代をいろどった番組の名前が次々に出てくる、懐かしくも刺激ある座談会でした。同時に、名古屋の話題というだけにとどまらず、今のテレビやマスメディアが抱えている悩みや問題も含まれ、視聴者にとっても、制作者にとっても、これからのテレビとの接し方のヒントが見つかる機会でした。
名古屋の様々なカルチャーにふれられる「やっとかめ文化祭」は11月17日まで開催。伝統芸能から現代のカルチャーまで、名古屋の“いまむかし”を体感しに、お出かけください。
(写真撮影/筆者、番組タイトル画像は「テレビの旋風」提供)