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日本の開発援助と外交に関する4つの論点(4)「ジョーカー・日本の開発協力は外交力に限界がある」

六辻彰二国際政治学者

ジョーカーとしての日本

援助は一面において「相手の国や一般の人々のため」という側面がありますが、それが供与国の予算を用いて行われる以上、「自国のため」という側面も拭い難くあります。資源開発や市場開拓で開発途上国への関心が高まるなか、開発協力の領域では、(2)でみたように、その方針や開発途上国からの支持をめぐる西側ドナーと新興ドナーの対立が顕著です。いわば、開発協力は、安全保障や貿易とともに、大国間のゲームの場でもあるのです。

そのなかで、日本の立ち位置は、極めてユニークなものといえます。そのODA額は西側先進国のなかで5本の指に入りますが、他方で(1)でみたように、日本の方針やスタイルはDAC(開発援助委員会)のガイドラインに必ずしも沿っていません。「相手の内政に口を出さず」「融資に基づくインフラ整備」が中心の日本は、「立場は西側ドナー、援助の内容やスタイルは新興ドナー」というグレーな立場にあります。仲間内の方針からはみ出している以上、西側ドナーのなかでの発言力も限られます。

しかし、(3)でみたように、欧米諸国は日本の開発協力に難色を示しながらも、これに利用価値を見出しています。日本はどんな相手からでも基本的に「要請にしたがって」、融資に基づくインフラ整備を加速させています。しかし、これは欧米諸国にとってハードルの高いものです。欧米諸国の場合、相手国の人権状況などに厳しい国内世論に配慮せざるを得ず、さらにDACの「貧困削減」の方針にしたがって社会サービスを重視しなければなりません。その一方で、台頭しつつある新興ドナーとの対抗上、融資に基づくインフラ整備を拡張させることは、広い意味での西側に開発途上国を引き付けるために有効です。

つまり、欧米諸国にとって、中国と異なり、最終的に自分たちの側につく日本は、「別のものだが、それを『自分たちと同じもの』として扱うことで、自分たちの開発協力のバリエーションの幅を広げられる」という存在です。いわば、開発協力という名のゲームにおいて、西側ドナーとも新興ドナーとも共通項をもつ日本は、勝負のゆくえに決定的な影響力をもつエースでもキングでもなく、ジョーカーとしての役割を、西側ドナーから認知されているといえるでしょう。

一方、やはり(3)で述べたように、2000年代半ばからの日本政府は、西側ドナーのなかでの埋没を恐れ、中央アジアやアフリカの人権状況に問題の多い国を含めて、贈与以外の資金協力や、インフラ関連の援助を拡大させてきました。そして、多くの場合、西側ドナーはそれを黙認しています。

このように日本はジョーカーとしての立ち位置をより鮮明にしてきていますが、そこには中国を利用したという側面もあります。欧米諸国は中国が開発途上国で新興ドナーとして勢力を大きくすることに警戒感を募らせるなか、日本の開発協力に利用価値を見出しました。その結果、日本は欧米諸国からの強硬な批判をほとんど受けないままに、DACの方針からの逸脱傾向を強めることができたのです。つまり、日本政府自身の「援助大国の復活」の願望は、「中国のお陰」で、欧米諸国によって阻まれなかったといえます。

融通無碍のジョーカー

それでは、「ジョーカーであること」は、日本外交にとって、どんな効果をもたらすのでしょうか。

その最大のメリットは、「摩擦を生みにくい」ことです。それを、援助対象国の政府、援助対象国の一般の人々、他のドナーとの関係からみていきます。

〈援助対象国の政府〉

冷戦終結後、人権保護や民主化を援助の前提条件としてきた欧米諸国と異なり、新興国と同様に「内政不干渉」原則を旨とする日本は、基本的に開発協力とこれらをほとんど結びつけません。また、欧米諸国が経済制裁の対象としている国でも、日本が援助することは稀ではありません(かつてのミャンマーやインドネシア、現在のスーダンやジンバブエなど)。

また、欧米諸国が援助の中核に据える社会サービスは、一般の人々を直接対象にすることが少なくありませんが、これは相手国政府から必ずしも好感をもってみられないことがあります。そこには、援助を通じて欧米諸国が一般の人々に人権や民主主義の理念を「吹き込む」ことへの警戒があるだけでなく、自分たちをバイパスして資金が提供されることへの不満があります。一方、日本が得意とするインフラ関連のプロジェクトは、基本的に相手国政府がパートナーになります

どこの国でもそうですが、特に開発途上国では、政府が多くの人々から必ずしも支持されているとは限りません。しかし、「政府をその国の代表とみなす」という原則を重視することで、日本の開発協力は相手国政府との間で、摩擦をほとんど生まないといえるでしょう。

〈援助対象国の一般の人々〉

日本は1990年代末から「人間の安全保障」を開発協力の理念の一つにしてきました。「人々の生活をよくすること」を改めて打ち出し、日本初の地域おこしである「一村一品運動」の普及を図るなどしています。

そのなかで、青年海外協力隊がもつ重要性は大きなものがあります。米国や中国の同様の組織が、基本的に全部英語で用を足そうとするのと比べて、日本の協力隊員の多くは、英語やフランス語といった公用語だけでなく、ローカルな言語も覚えるなどして現地社会に溶け込んでいます。特にアフリカの貧困国など、日本企業の進出が立ち遅れている国で活動する協力隊の若い人(シニアボランティアもいる)たちは、それらの国での日本の存在感の半分以上を担っているとさえいえます。

惜しむらくは、そのようにして現地社会で信頼を得た有意な人材に対して、2年、3年といった派遣期間の後、仮に本人たちにその方面で生きる意思があったとしても、日本政府が十分な受け皿や支援策を用意できていないことです。これは日本としても損失のはずです。若い人の熱情を使い捨てるようなやり方は、そろそろ見直した方がいいと思います。

〈他のドナー〉

くどいようですが、日本は新興ドナーと異なり、「援助を通じて相手国の内政に口を出す」西側ドナーのアプローチを批判することはありません。また、1990年代に貧困国に対する債務免除をめぐって欧米諸国と意見が一致しなかった際、最終的には(しぶしぶ)DACの方針にしたがったように、基本的には欧米諸国と足並みを揃えるというスタンスが顕著です。そのため、援助の内容やスタイルにかかわらず、西側ドナーという立場は揺るがず、欧米諸国との摩擦は(少なくとも表面上)ほとんどありません。

他方、中国に対しては批判を隠しません。2014年1月、アフリカを訪問した安倍首相は、日本の援助が「アフリカのため」であると強調しました。ここには、暗黙裡に中国の「新植民地主義」への批判を見て取れます。

しかし、中国を除く、インド、ブラジル、サウジアラビア、トルコなどその他の新興ドナーに対しては、その限りではありません。これらと共通項の目立つ方法やスタイルを採る日本が、何か口を出すことはほとんどないのです。中国への批判はむしろ例外であり、「相手国のことに口を出さない」日本は、新興ドナーとの間でもほとんど摩擦を生まないといえます。

ジョーカーの「裏面」

しかし、「摩擦を生みにくいこと」は、開発途上国で「存在感をもつこと」と同義ではありません。むしろ、多くの開発途上国の政府からみて日本は、「いいひと」ではあっても、「多くの支持者を引き付ける者」ではありません

欧米諸国が人権保護や民主化を援助の前提条件にしたことは、そして場合によっては実際に援助停止を含む経済制裁を実施したことは、多くの開発途上国にとって、少なからず圧力になりました。もちろん、新興ドナーなどが強調するように、その手法が一方的であった、さらにダブルスタンダードがあるという批判は免れないでしょう。しかし、これが少なくとも結果的には、冷戦終結後の開発途上国なかでも貧困国における「独裁者」たちに、体制転換へと舵を切らせる決定的な要因になりました。いずれにせよ、尊重すべき原理を明示し、時にはそれを強制することで、欧米諸国が開発途上国に大きな影響力をもつことは確かです

一方、新興ドナーなかでも中国は、自由や民主主義の理念そのものに対してではなく、「それらを強制されること」に対する広範な不満を吸い上げて、勢力を広げました。その人権侵害を理由に、米英が国連安保理の場で、スーダンやジンバブエを経済制裁の対象にすべきと主張した時、拒否権を発動してまでこれを阻止したのは、中ロでした。その良し悪しはともかく、欧米諸国からの外圧に抵抗する旗頭として、中国は開発途上国からの支持を集めたといえます。

ただし、ここで注意すべきは、この観点から中国を支持するのが、主に開発途上国の「政府」やエリート層であることです。

2013年に行われた調査によると、世界平均で「米国に好感をもつ」、「中国に好感をもつ」ひとは、それぞれ63パーセント、50パーセントでした。中国はなかでもアフリカで好感を集めており、平均で72パーセントの回答者が「中国に好感をもつ」と答えており、これは「米国に好感をもつ」の平均77パーセントと大きな差がありませんでした。この中国に対する好感は、概ね経済活動の活発さや(欧米諸国がほとんど伝えなかった)技術伝播の効果に対するものとみられます。言い換えると、人権侵害が横行する国に対する中国の擁護は、同じく人権侵害が横行している国の政府ほど、これを支持しやすいといえます。

いずれにせよ、これらと比較した場合、日本の存在感は薄いと言わざるを得ません。日本は要請に基づいて経済インフラを熱心に建設します。しかし、欧米諸国のように自由や民主主義の価値を称揚し、これを強制するわけでもなく、逆にその強制から開発途上国(の主に政府)を庇護するわけでもありません。西側ドナーとも新興ドナーとも共通項をもつグレーさは、「摩擦を回避する」という点で得難い特性であるとしても、多くの開発途上国からみた「頼りがい」にはならないといえます

「摩擦が少ないこと」を利用した存在感とは?

「頼りがいのあるリーダーになる必要はない、摩擦が少ない日本だからこそ果たせる役割もあるはず」という意見もあるでしょう。

実際、例えば1988年のクーデタ後、欧米諸国がミャンマーに経済制裁を敷いた際、日本政府は「関係を維持しながら事態の改善を促す」と強調し、援助を(ほそぼそと)続けました。ただし、確かに「関係を維持」したものの、その間に日本政府がミャンマー政府に対して、民主化や人権保護といった「事態の改善」に関して、口頭での要求以上の働きかけを行った事実は確認できません

ミャンマーでは2010年に選挙が行われ、軍事政権からの転換が始まりました。これは2007年に大規模なデモに治安部隊が発砲したことに欧米諸国や近隣の東南アジア諸国からさえ批判の声が噴出し、他方で経済制裁が敷かれているなかで中国が同国に大規模に進出し、過剰な存在感を示すようになっていた状況における、生き残りを賭けたミャンマー政府の判断だったといえます。そこに、日本政府の影は見出せません。

さらに、この2007年のデモ鎮圧の際、日本人ジャーナリストの長井健司氏が兵士に銃殺されましたが、日本政府からは「ミャンマー政府には強圧的な弾圧をしないよう求めてきた」「強く抗議する」という発言以上のものが出てきませんでした。これは「摩擦を回避する」ことを何より優先する日本のスタンスを象徴するといえるでしょう。

一から十まで相手国の内政に口を出すことがよいこととは思えません。とはいえ、「内政不干渉」や「自助努力」を盾に相手国の内政に一切関知しないことも、それが深刻な人権侵害をともなっていればなおさら、不公正を事実上黙認することになります。

不公正を是認することのリスク

相手国の主権だけをひたすら尊重することは、人道的、倫理的な観点からだけでなく、外交という観点からみても問題になり得ます。

図1は、アフリカに進出している日系企業に対してJETRO(日本貿易振興機構)が行ったアンケート調査の一部で、日系企業168社の感じる「経営におけるアフリカ側の問題点」を示しています。

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テロ、暴動、内戦といった政治的・社会的不安定さが約87パーセントを占めて第1位ですが、第2位に約77パーセントの「規制・法令の整備・運用」があることも、アフリカらしいといえます。

つまり、アフリカでは公務員の汚職が多く(そもそも公務員の採用試験がない国も少なくない。その場合、採用や昇進は縁故に左右されやすい)、ビジネス関連の法令が守られないことも珍しくありません。また、議員の立法能力の問題もあって、そもそも必要な法令が整備されていないこともあります。さらに、ビジネス上の問題を処理する裁判所も、賄賂の多寡で判決が決まったりします。

これらに鑑みれば、他の国の企業と同様、日系企業が相手国政府にさまざまな改善を求めたくなるのは当然です。

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図2は、日系企業168社が求めたい「日本政府の支援」を表していますが、ここで制度構築や改善指導といった、「相手国政府への各種要望伝達」が第1位(約57パーセント)がきているのは、不思議ではありません。ところが、ここで日本の最大のアキレス腱がクローズアップされてくるのです。

再三述べてきたように、日本政府は相手国の主権を最大限に尊重し、開発協力においても相手国政府との関係を最優先にしています。そのなかで、相手国にガバナンスの改善を求めることは(外務省関係者はやっていると強調しますが)、日本政府にとって不得手なことです。少なくとも、国内のマンションの耐震偽装などでもみられたことですが、性善説にのっとって相手に改善を求めるだけの対応は、実効性が低くなりがちです。これに鑑みれば、相手国政府との関係を最優先にするあまり、相手の国内のことがらに全く口を出さないことは、自国企業にとってマイナスになり得るのです。

「常任理事国入り」の呪縛

開発協力において、日本政府が相手国政府との関係を最優先にすることは、日本が重視する内政不干渉原則や、資源開発の許認可権をもつのが当該国の政府であることだけが理由ではありません。

開発協力において日本政府がほぼ唯一、相手国に求めることは、日本が提案している(日本が安保理常任理事国入りを果たすための)「国連改革」への賛同です。実際に国連などに出席するのは、政府関係者です。つまり、開発協力の一つの外交目的が「常任理事国入り」であることは、日本政府をして相手国政府との関係を最優先にさせる一因になっているといえるでしょう。

しかし、これがやはり日本外交の手足をしばることにもなります。「常任理事国入り」は外務省の悲願かもしれませんが、これは逆に開発途上国政府からみれば、「それさえとりあえず約束しておけばよい」となり、足元をみられても不思議ではありません

(3)で触れたように、2005年に日本がドイツ、インド、ブラジルとともに提案した国連改革提案は、アフリカ各国を含む多くの開発途上国から、見事に蹴られました。一部には、これを「中国の陰謀」という意見もあります。しかし、中国だけでなく、いわゆる五大国にとって、常任理事国の席を増やすことは、自らの特権を薄めることに他なりません。その合意が必要な以上、今後とも「国連改革」が実現する公算は限りなく低いと観ざるを得ません。それでも日本政府は「国連改革」を熱心に説いたうえで、ビッグプロジェクトを提供しています。お人よしにもほどがある、というと言い過ぎでしょうか。いずれにせよ、開発協力の提供において「これだけはよろしく」というものをあまりに鮮明にすることは、その要望を担保にされることで、それ以外のシーンで日本の発言力を削ぐことになるといえるでしょう。

「外交=政府間の関係」の呪縛

念のために付言すれば、相手国政府との関係は外交や開発協力の基本です。しかし、それを優先しすぎるあまり、相手国の一般の人々に関心を向けなければ、それは外交上のリスク分散という観点から難があるといえます。

2010年12月にチュニジアで始まった政治変動「アラブの春」が諸外国にもたらした一つの教訓は、相手国政府とのみ友好関係を築くことの危険性でした。2011年2月にムバラク政権が崩壊した後のエジプトで反米感情が、同年9月にカダフィ体制が崩壊した後のリビアで反中感情が噴出したことは、その象徴です。

「独裁者」と友好関係をもち、これを支援する外国は、彼ら自身がどんな心づもりであったにせよ、「独裁者」に対する不満を募らせたその国の市民の目には、「友」とは映りません。世界全体が不安定化し、既存の体制が恒久的に続くと限らない状況が生まれ、他方で日本が相手国政府との関係を最優先にしていることに鑑みれば、2011年以降中国企業がそれ以前に開発していた油田権益を新体制によって没収されたことは、笑うどころか、他山の石とすべきことなのです。

米国の国際政治学者ジョセフ・ナイは、強制(軍事力)や報酬(経済力)などによらず、魅力によって望む結果を得る能力をソフト・パワーと名付けました。ナイによると、ソフト・パワーは文化、政治的な理想、政策の魅力によって生まれ、これを広く伝えるための手段としては、留学や文化交流などの人的移動や、マスメディアなどを通じた情報発信があります。いわば「アメとムチ」に頼らず、相手を味方につける力であるソフト・パワーの強化は、あらゆる国が避けられない課題であると同時に、相手国のエリート層だけでなく、一般の人々をも対象にすることで、より効果が大きくなるといえます

この観点からみたとき、「人間の安全保障」を掲げながらも大規模なインフラ建設が優先され、さらに相手国の内政にほぼ全く口を出さない日本の開発協力には、大きな限界があると言わざるを得ません。開発協力が日本にとって数少ない外交手段であることに鑑みれば、ただ金額を積み増したり、ビッグプロジェクトを連発するといった「成功体験」に囚われたアプローチから脱却することが欠かせないといえるでしょう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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