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日本の開発援助と外交に関する4つの論点 (1)「日本の開発援助の評価が高くないのは不思議でない」

六辻彰二国際政治学者

12月21日、児玉克哉氏がYahoo! ニュース個人で「発展途上国支援ランキングで日本は27カ国中27位の最下位~衝撃のランキング結果です」と題する記事を掲載しました。Center for Global Developmentが発表した開発途上国向けの支援のあり方に関する先進国27ヵ国のランキング結果、日本が最下位だったことについての論評です。この記事は環境支援や貿易などを含む、広い意味での「支援」を取り扱っているのですが、開発援助だけに関しても11位と振るいませんでした

日本が開発途上国に多くの援助を行ってきたことから、この結果に驚く人もあるかもしれません。しかし、日本の開発援助の評価が低いことは、当然といえば当然の結果といえます。

前提―何のため?

まず大前提として、開発援助に関する基本的なことがらを整理しておきましょう。

まず、児玉氏の記事にもあった「先進国27ヵ国」とは、OECD(経済協力開発機構)のなかのDAC(開発援助委員会)に加盟する国を指します。OECDは東西冷戦を背景に、西側諸国の経済協力を目的に1948年に設立されたOEEC(欧州経済協力機構)を母体とします。現在、OECDにはトルコやメキシコなど政治的に西側寄りの開発途上国も含まれますが、メンバーのなかで経済水準の高い国だけがDACに加盟できます。DACメンバーになることは、名実ともに西側先進国になることを意味します(もっとも、所得水準がトルコなどに近いギリシャもメンバーであるため、その基準に恣意的な側面がないではない)。日本と韓国を除くと、DACメンバーのほとんどは、オーストラリアやニュージーランドを含む、いわゆる欧米諸国です

冷戦期、各国は個別バラバラに援助を提供していましたが、冷戦後の1990年代にはDACで援助に関するガイドライン作りが進められました。目標、基準、情報を共有し、手法についても足並みを揃えることで、効果的・効率的な援助を目指そうとしたのです。ドナー(援助国)間のこの取り組みは、援助協調と呼ばれます。

1990年代からの援助協調のなかで重視されたのは、主に以下の各点でした。

  • 貧困層、貧困国に優先的に援助すること(「経済成長」ではなく「貧困削減」が援助の目的
  • 貧困層が直接アクセスし、個々人が自ら将来を切り拓くために必要な、教育や医療などの基礎的社会サービスに重点をおくこと(道路、橋、発電所などの経済インフラは「援助」として優先順位が低い)。
  • 特に貧困国を対象にする場合、返済義務をともなう「貸し付け」ではなく、返済義務のない「贈与」を資金協力の中心にすること。また、債務の返済が困難になった貧困国を意味するHIPCs(重債務貧困国)に対しては、債務を免除すること

これらの「貧困削減」を重視する方針は、当初は西側ドナー(DACメンバーだけでなく、これらが強い影響力をもつIMF、世界銀行なども含む)の間のガイドラインでしたが、2000年に国連総会で採択されたMDGs(ミレニアム開発目標)にも反映されました。これにより、「貧困削減」が援助の出し手と受け手の双方にとっての共通の目標にされたといえます。

念のために補足すれば、冷戦期から開発援助には、「相手国政府との関係を強化する」という外交目的のための手段としての側面が拭い難くありました。それは冷戦終結後も払しょくされたわけでなく、例えば英仏両国は「貧困削減」や援助の「人道性」を強調しながらも、そのアフリカ向け援助はそれぞれのかつての植民地向けのものがほとんどで、そこには自らの国際的な足場固めという側面が色濃くあります。政治的な観点からみた友好関係が援助に反映されるという意味ではその他の国も同様で、米国の場合は中東向け援助のほとんどをイスラエルとエジプトが、日本の場合は東南アジア向け援助のほとんどをインドネシア、タイ、フィリピンなどが占めてきました。そのため、「貧困削減」はあくまでの公式の目標設定だったといえます。

とはいえ、少なくともDACによる「貧困削減」のガイドラインは、西側先進国にとって「望ましい行動様式」を示す、一つの行動規範となったことも確かです。

データ―どのように?

以上を踏まえて、日本の開発援助のあり方をデータからみていきましょう。

〈金額―額面は小さくないが、経済規模と比べると大きくない〉

図1は、DAC(開発援助委員会)加盟国、つまり西側先進国のODA(政府開発援助)の提供額を表したものです。提供額には「粗提供額」と「純提供額」があります。このうち、粗提供額とは、その年に提供された金額の総額を指します。一方、純提供額は、粗提供額から、その年に返済された以前の貸し付け金の額を、差し引いたものです。つまり、粗提供額は名目上提供された資金の額を、純提供額は実質的に提供された資金の額を、それぞれ表すのです。

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これでみると、日本のODAは、粗提供額では米国に次いで2位ですが、純提供額では米独英仏に次いで4位です。経済規模でいえば、日本はドイツ、英国、フランスを上回ります。

これに加えて、図2では、GNI(国民総所得)に占めるODAの割合を示しています。DACはGNIの0.6パーセントをODAに割り当てる目標を掲げています。この目標をクリアできている国の方が少ないのですが、クリアできていない国のなかでも、日本は下から数えた方が早い水準です。

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以上を要するに、日本のODAの金額は、額面でみれば小さくないものの、その経済力と比較したなら、必ずしも大きくないのです。

〈資金協力のタイプ―「あげる」ではなく「貸す」〉

図1にもどると、他の先進国と比較して、日本のODAの場合、粗提供額と純提供額に大きな差があることが分かります。これは、他の先進国はODAの多くを返済義務のない「贈与」で行っているのに対して、日本の場合は返済義務をともなう「貸し付け」の占める比率が大きいことによります。つまり、日本のODAはほとんどの先進国と異なり、「あげる」ではなく「貸す」タイプが中心なのです

これに加えて、日本の資金協力には、ODA以外のものも目立ちます。

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図3は各国のOOF(その他の公的資金の流れ)拠出額を示したものです。OOFとは、民間銀行から借りるよりはましとはいえ、(金利が高めに設定される、返済期間が短いなど)借り手にとって必ずしも条件がよくないものを含め、「援助」であるODAに当てはまらない資金協力を指します。このなかには、将来的に見込まれる資源輸出による収入を担保に資源産出国に資金を貸し付ける「輸出クレディットライン」なども含まれます。図3からは、このOOF提供額で、日本が飛び抜けて高いことが分かります。

つまり、欧米諸国の場合は「援助」と「ビジネス」を識別し、援助を無償で行うことが多いのに対して、日本の資金協力には商業主義的な側面が大きいといえます。

〈援助の内容―経済インフラの建設に重点〉

贈与より貸し付けが多いことの一つの理由は、日本の開発協力で経済インフラが重視されていることにあります。

図4はDACメンバーのODAに占める経済インフラの比率を示しています。DACの貧困削減のトレンドを受けて、2000年代に一旦その比率が低下したものの、日本の数値は他の西側先進国を大きく凌ぎます

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教育や医療といった基礎的社会サービスと比較して、経済インフラの建設はプロジェクト当たりのコストが高くなりがちで、100億円を超えるものも珍しくありません。これが貸し付け中心の資金協力の一つの要因としてあげられます。

ただし、その結果、DACのガイドラインで「援助の中心」と位置付けられた基礎的社会サービスの比率は低くなりがちです。

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図5はDACメンバーのODAに占める社会・行政インフラ(基礎的社会サービスの提供に加えて、ガバナンス改善など)向けの援助の比率です。平均して20パーセント前後という水準は、イタリアに次いで低いものです。

宣教師型と商人型

以上にみたように、日本の開発援助は、他のDACメンバー、すなわち欧米諸国と大きく異なります。

1990年代半ば以降、欧米諸国は貧困を「個々人の可能性の幅を制約するもの」と捉え直し、それをなくすことに倫理的な価値を見出すようになりました。このトレンドは、アマルティア・センの貧困研究などの影響を受けたものでした。そして、「貧困をなくすこと=開発」とは、個々人の可能性を発揮しやすい環境を作ることと位置付けられるようになったのです。

この倫理的な観点からすれば、貧困層が自らの可能性の幅を広げやすくする基礎的社会サービスや、貧困国に負担をかけない贈与が重視されたことは不思議ではありません。欧米諸国は、いわば「望ましい社会のあり方」を設定し、そのための手段にも倫理性を求めるという、いわば「宣教師型」の開発援助を行ってきたといえるでしょう。

これに対して、日本の開発援助は、「商人型」と呼べます。そこでは、経済成長が貧困削減の大前提と捉えられます。2003年に閣議決定された新ODA大綱では、「貧困削減を達成するためには、開発途上国の経済が持続的に成長し、雇用が増加するとともに生活の質も改善されることが不可欠であり…」とあります。

ここで示された「経済成長を通じた貧困削減」の方針では、しかし同じ「貧困削減」という語が用いられていても、そこでは「個々人の可能性を発揮しやすい環境を作ること」という倫理的なトーンより、単純に所得を引き上げるという、規範的に価値中立的なトーンの方が強く打ち出されています。つまり、日本の開発援助は、倫理的・精神的な価値観より、経済を成長させることで人々の物質的な満足感を引き上げることに高い優先順位をつけているといえます。

「何が開発途上国のためか」の対立の影で

これら2つのタイプのうち、いずれが優れているかを断定することは困難です。寄付の文化が根強くある欧米諸国では、贈与が援助の中心であることは自明とされる傾向があります。

他方、日本の政府、援助関係者、開発経済学者などの主流派の間では、「あげる」タイプは援助の受け手(レシピエント)の自立心を阻害するため、「貸す」方が相手のためになる、という主張が支配的です。さらに、日本の「援助サークル」では、インフラ整備に関しても肯定的な意見が少なくありません。日本で最もよく用いられる開発援助のテキストの一つによると、「地方開発や農村開発を円滑に進めて貧困削減につなげる上で、社会インフラと経済インフラの境界にこだわることには意味がない」【西垣 昭, 下村恭民, 辻 一人, 2009年, 『開発援助の経済学 第4版』, 有斐閣, p.252】。

社会サービスが充実し、多くのひとの健康状態がよくなり、識字率が向上しても、仕事がなければ、そして経済が成長しなければ、人々の生活が持続的に豊かになるとはいえません(それはちょうど、日本の地方都市や過疎地が直面している課題と同じです)。その意味で、基礎的社会サービスのみに焦点をあてることが、バランスを欠いたものになりがちで、上で引用した部分の指摘は実践的なものといえるかもしれません。ただし、概念の区分を不明確にすることは、経済インフラを優先させることの正当性に必ずしもつながらないはずです。

日本がインフラ整備にこだわる背景には、冷戦期からの経験値の積み重ねによる競争力の高さ(言語を介しやすい基礎的社会サービスと比較して、インフラ整備は技術が中心)や、日本企業がプロジェクトに参入する機会の多さ(入札は行われているが、技術水準の高いものになれば事実上日本企業にとって有利)といった要因もあげられます。また、高齢者介護などを担う社会保障は後回しにして大家族制のもとの主婦などに任せ、とにかく経済成長一本やりで戦後復興を実現させた日本自身の経験も、そこに反映されているといえるでしょう。

「何が開発途上国のためか」をめぐる日本と欧米諸国の間の静かな摩擦については、次回以降、より詳細に検討したいと思います。いずれにせよ、ここで強調しておくべきことは、「どちらの方が開発途上国のためになるか」という二者択一の議論ではなく、貸し付けという有償資金協力と、それに基づくインフラ整備を中心とする日本のスタイルが、少なくとも欧米諸国と異なるだけでなく、日本が自らもメンバーであるDACの方針に沿っていないことです

貧困国向けのインフラ整備の是非

もちろん、全ての面で日本がDAC主流派のトレンドと異なるわけではありません。図6はDACメンバー各国のODAに占めるLDC(最低開発途上国)向けの援助額の割合を表したものです。ここからは、日本が2000年代にLDC、つまり最も貧しい部類の国へのODAを増やしたことがみてとれます。

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これはアジア諸国が経済成長し、日本がアフリカに焦点を切り替え始めたことによります。ともあれ、貧困国向けの援助が増えた点で、日本はDACのガイドラインに沿っているといえます。

ただし、その場合でも、必ずしもDACのスタンダードとは異なる援助も珍しくありません。「貧困削減」のガイドラインを受けて一時控えられていた、貧困国向けの貸し付けをともなうインフラ整備は、政府が開発協力の拡張を目指すなか、モザンビークなど新規油田開発国やタンザニアなど日本企業の進出が見込まれる国ほどで、発電所の建設などが再び増加する傾向にあります。

1990年代半ば以降、これらの国はHIPCsイニシアティブ(IMFや世界銀行が主導する債務免除措置)の対象となりました。その際、日本政府は「借りた金を返さなくて済まされればモラルハザード(倫理の崩壊)を招く」「有権者に説明がつかない」と反対しましたが、他のDACメンバーに押し切られました。そして、HIPCsイニシアティブ導入後、DACメンバーは各自の二国間債務も段階的に免除していき、ODAを貸し付けに頼る日本は他国と比較しても多い債務免除を余儀なくされた経緯があります。

このことは、モザンビークやタンザニアを含む東アフリカ一帯で2000年代に海底油田が発見された後、日本政府は急速に援助額を増やしつつあるなかで、ほとんど放念されているようにもみえます。少なくとも、これらの国での融資をともなうインフラ建設が、DACがいうところの「貧困削減」に必ずしも沿っていないだけでなく、今後とも債務放棄の可能性があり得ることが国内向けにほとんど説明されないまま、新たに行われていることは確かです。

自らの方針と外部スタンダードの接合は可能か

念のために付言すれば、DACあるいはそのメンバーのほとんどを占める欧米諸国の方針や評価が絶対に正しいとは限りません。冷戦時代から、貸付中心の日本が主に援助してきた東南アジア諸国は、いまや世界の成長センターの一角を占めるに至りました。それと比較すると、贈与中心のヨーロッパが主に援助してきたアフリカ諸国は―この10年ほど「資源ブーム」で成長したとはいえ―長く経済成長と見放され、所得水準で東アジアと大きく水を空けられています。もちろん、東アジアとアフリカのパフォーマンスの違いの原因を、主なドナーの援助スタイルだけに求めることはできないにしても、これが日本の援助関係者にとっての「成功体験」になっていることは確かです。

とはいえ、それが国際的に幅広く支持されているとは限りません。JICA(国際協力機構)は2004年から「人々のためのインフラ」というスローガンを掲げ、橋や道路の建設によって病人を運びやすくなる、子どもが学校に通いやすくなるなど、一般の人々の生活をよくするという点を強調していますが、それはかつての日本国内の公共事業と同様に、海外で行われた日本のODAによるインフラ建設でも、必要性が疑わしいだけでなく、地域住民や自然環境に負担をかけるプロジェクトが横行していたことを背景としています。いずれにせよ、大規模なインフラ整備の提供を「貧困層の生活の改善」に結びつける主張に、DACは懐疑的な視線を隠しません。2010年のDACのピア・レビューによると、「JICAはその大小にかかわらず、あらゆるプロジェクトに人間の安全保障の側面を付け加えようとしている。しかし、巨大な経済インフラの建設などの大規模なプロジェクトにおいて、その方針を実践するのはかなり困難である」。

DACメンバーのほとんどが欧米諸国で、冒頭で紹介したCGDをはじめ、これらと協力する機会の多い、大規模なNGOや研究機関のほとんども欧米諸国に拠点を置いています。これらは世界全体の開発援助のトレンドを形成するうえで、大きな影響力をもちます。このように「国際社会」というものが、発言力の大きい欧米諸国を暗に指す現状において、その良し悪しはおいたとして、そのスタンダードから外れたところの目立つ日本のスタイルが高評価を得られると期待することはできません

日本にとって、開発援助はレシピエントの生活改善や、国際関係全体の安定に寄与する手段であると同時に、数少ない外交手段でもあります。また、長年培ってきた日本の技術は確かなものがあります。その一方で、自らもメンバーであるDACの方針もやはり軽視できないはずです。このギャップを乗り越えて改善していくためには、まず日本の開発援助の有り様を再検討する必要があるといえるでしょう(続く)。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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