承久の乱 後鳥羽上皇方が北条泰時の陣に勅使を急派した納得の理由
承久3年(1221)6月14日、宇治川を渡河した鎌倉幕府軍は、官軍(後鳥羽上皇方)を撃破しました(承久の乱における宇治川の戦い)。
翌日の朝には、朝廷(後鳥羽上皇)からの使者が、北条泰時(鎌倉幕府軍の総大将)の陣を訪れます。勅使(天皇の使者)は、小槻国宗で、彼は院宣(上皇の命令により、院庁の役人が出す文書。院の命令書)を持参していました。
泰時は、勅使に対し「院宣を拝見します」と言うと下馬します。この日の早朝、官軍方の足利秀康と三浦胤義は、御所に参上し「宇治と勢多の両所の合戦で官軍は敗北しました。敵は、道路を塞いだうえで、入京しようとしています。万が一のことがあっても、死を逃れる事は出来ないでしょう」と言上。そこで、小槻国宗を泰時の陣に急ぎ派遣することになったのでした。
では、勅使がもたらした院宣には、何が書いてあったのか。『吾妻鏡』(鎌倉時代後期の歴史書)によると、この時、泰時の軍勢のなかに、院宣を読解できるものが、なかなかおらず。
泰時の命を受けた岡村次郎兵衛尉が探し回った結果、勅使河原小三郎が「武蔵国の住人・藤田三郎は、学者の家の者だ」というのを聞いて、これを呼び出します。召し出された藤田は院宣を読み解きます。
その内容は「この度の合戦は、叡慮(後鳥羽上皇のお考え)で起こったのではなく、謀臣たちが主導したことです。よって、今では、希望通りの命令書を発給します。また、洛中で、狼藉を行わないよう、幕府軍の武士に命令してください」というものでした。上皇や天皇が処罰されることを回避するため、院宣を携えた使者が、泰時のもとに急派されたのでした。