扇の的で功挙げた与一、平家落人の悲恋伝説が残る村…「那須」一族の歴史をたどる
「鎌倉殿の13人」は、このあと源平合戦に突入する。
源平合戦の際の数あるエピソードのうち、最も有名なのが屋島の戦いの最中に行われた「扇の的」である。「平家物語」のこの場面は、高校の古文の教科書に掲載されていることも多く、読んだことがあるという人も多いだろう。
教科書では、波間に揺れる扇の的を見事に射抜いたところまでが紹介されることが多いが、原典の「平家物語」では、その直後に感動して舞を舞い始めた老武者をも義経が射殺させたとあり、高校時代にこれを読んだ筆者はひとかたならぬ衝撃を受けた。
この那須与一はもちろん実在の人物である。「与一」は「余一」とも書き十一番目という意味。那須氏は北関東の豪族で、与一はその十一男であった。
那須与一のルーツと子孫
那須氏は下野国那須郡(現在の栃木県)の豪族。藤原北家の出で道長の六男長家の子孫と伝えられるが、古代豪族那須国造の末裔ともいわれはっきりしない。鎌倉幕府の成立後、与一は頼朝から信濃・丹波など5か所の荘園を賜って御家人となり、兄弟の多くが平家方についていたことから、十一男ながら那須氏を継いだとされる。しかし与一は同時代の資料には見えず、その事績などははっきりしない。
鎌倉時代になると那須氏は芦野氏、福原氏、伊王野氏などの一族を那須郡内各地に分出、那須党という武士団を組織して有力武家に成長した。室町時代には佐竹氏や結城氏とともに北関東を代表する武家となり、江戸時代初期には一時期下野那須藩1万4000石を立藩したもののまもなく取り潰され、子孫は交代寄合(準大名扱いの旗本)となっている。
宮崎県の那須氏と椎葉村の鶴富屋敷
さて、現在最も「那須」という名字が多いのは宮崎県で、ここには那須氏と平家落人を巡る物語が伝えられている。
源平合戦後、平家の残党追討のために日向国(現在の宮崎県)に入った那須大八郎は、山深い椎葉でひっそりと暮らしている平家残党を見つけた。しかし、あまりの貧しい暮らしをみかねて追討をあきらめ、同地に留まって農耕の指導をするうち、平家の鶴富姫と恋に落ちて子をなした。
やがて大八郎は帰郷を命じられ、「生まれた子が男子なら故郷下野の国へ、女子ならばそれには及ばず」と言い残して椎葉を去った。生まれた子は娘であったため、鶴富姫はそのまま椎葉に住んだという。宮崎民謡「ひえつき節」は二人の悲恋を歌ったものである。
大八郎と鶴富姫の子孫は那須氏を称して繁栄、戦国時代には小崎城(現在の椎葉村大川内)に拠って椎葉山一帯を支配する有力武家となった。現存する同家屋敷は鶴富屋敷といわれ、国指定重要文化財である。
「那須」という名字は現在も椎葉村に激しく集中している他、隣の西米良村や県境を越えた熊本県球磨地方にかけて多い。