日本人はなぜ米国に騙され続けてきたのか2
厚生労働省は2月28日、2022年に生まれた子供の数が前年比5.1%減の79万9728人であると発表した。この数字には日本国内の外国人も含まれるので、日本人だけに限れば昨年生まれたのは77万人前後とみられる。
日本の子供の出生数は7年連続で過去最少を更新し続けており、国立社会保障・人口問題研究所が2017年に行った将来推計では、日本人の出生数が77万人台になるのは2033年とされていた。それが11年も前倒しになった。
岸田総理は「異次元の少子化対策」を政権の最優先課題だと宣言した。しかしその政策の中心は児童手当の拡充など金のばらまきである。これには少子化対策と思わせて選挙対策に利用したい思惑が透けて見える。
2009年に自民党が初めて総選挙に敗れ、民主党が政権交代を果たした時の原動力は「子ども手当」だった。民主党は少子化対策のように見せて、実はリーマンショック後の不景気に対応する金のばらまきを公約に掲げ、選挙で国民から圧倒的な支持を得た。
岸田政権は同じことを狙っている。だから自民党の茂木幹事長が急に民主党の主張であった「所得制限撤廃」を言い出す。選挙が念頭にあるとしか思えない。すると野党も所得制限の撤廃を本当にやらせようとして追及が手当の拡充に終始する。
国民の経済的困窮が少子化の原因だとする考えは一般に受け入れられやすい。しかし経済的に困窮する国の出生率は豊かな国より高いのが現実である。経済的困窮だけが少子化の原因とは思えず、金を支給すれば出生率が上がる保証もない。
勿論、経済的に豊かになれば子供を持ちたいと思う人はいる。しかし子供を持つより自由な時間が欲しい、あるいは趣味に生きたい、豊かになれば多様な生き方を求めるのが人間だ。繫栄した国家が少子化となり、出生率の高い野蛮国に敗れるのが、古代からの歴史の教えである。
従って少子化対策は手当を拡充するだけでは駄目で、少子化が止まるように社会の仕組みを変えることが必要だ。先進国の中でどうにか少子化を免れているフランスやスウェーデンなどに共通するのは、女性の社会的地位が高いことである。
1人の女性が生涯に産む子供の数を合計特殊出生率と言うが、それが2に近い国々は高等教育修了者が男性より女性に多く、母親が育児にかかりきりにならないよう国が支援する仕組みがある。そして先進国は教育レベルが高いので、何よりも教育費を無償化するのが少子化対策の特効薬になる。
フランスは3歳から義務教育にして子供の面倒を学校が見ることにした。3人以上子供のいる家庭は減税の対象になり、3人以上の子供を育てた親は年金が加算される。少子化対策とはそうした政策のことを言う。
またそれらの国々に共通するのは同性婚やLGBTに対する寛容度が高い。岸田総理は同性婚を認めると「社会が変わってしまう」と言ったが、そのように社会が変わってしまわないと「異次元の少子化対策」にならない。
実は日本の政治は30年以上も前から、少子化によって日本は社会機能を維持できなくなると分かっていた。ところが分かっていながら本気で少子化対策に取り組まず、児童手当の拡充という少子化対策というより社会保障政策に終始してきた。
なぜなのか。その疑問を追及していくと、敗戦後の日本を統治したGHQの「日本弱体化計画」に行きつく。戦前の日本は「産めよ殖やせよ」で、海外への膨張政策を採り、それが日本の侵略戦争を生んだという歴史観で、GHQは秘かに日本の国力を削ぐ少子化を推進した。
GHQは日本が二度と米国に歯向かえなくするため、①軍隊を持たないことが平和への道だと思い込ませる憲法を作成し、②食料を米国に依存せざるを得なくする目的でパンと脱脂粉乳の学校給食を日本の子供たちに食べさせ、③海外への膨張を阻止する目的で「産児制限」を奨励した。
憲法9条2項(戦力不保持、交戦権否定)があるため、日本は日米安保条約で米国に防衛を委ね、防衛してもらう代わり日本の領土のどこにでも米軍基地を作ることを認めた。安保条約は一方的に破棄できるので、日本は米国から見捨てられることを恐れて言いなりになる。そして言いなりになれば米国の戦争にまき込まれるリスクが高まる。
そのジレンマをメディアも政治家も国民に教えず、9条2項は平和のためだと国民を騙してきた。9条2項によって日本は永遠に米国に従属することになる。そのことは以前のブログに書いた。
1981年に私は米国の元農務次官を取材し「戦後に米国が日本の学校給食にパンと脱脂粉乳を提供したのは、食料難を救うより、子供にパンの味を覚えさせ、将来にわたって米国の小麦を輸入させる目的だった」ことを聞き出した。日本の食料自給率が低いのは裏に米国の意図がある。食料を押さえられた日本は米国に反抗できない。それもブログに書いた。
そこで次に少子化の裏にある米国の意図について書くことにする。その事情は河合雅司元産経新聞記者が書いた『日本の少子化 百年の迷走』(新潮選書)に詳しい。同書によれば、明治維新で日本の工業化が始まり、貿易で豊かになると急速な人口増加が始まった。
増え続ける人口は国内の農業だけで養いきれない。明治政府は海外移住を奨励した。米国は日本が日露戦争でロシアを破ったことを喜び、ポーツマス講和条約を仲介するが、その直後から日本に対する警戒を強め、日本攻撃の戦争計画「オレンジプラン」を作成し、カリフォルニアでは日本人移民に対する排撃運動が勃発した。
日本国内の人口過剰と海外の排日運動で、日本の有識者の中から「産児制限」の議論が始まる。1922年に雑誌『改造』は、米国の産児制限運動の指導者マーガレット・サンガー夫人を日本に招き、「産児制限」が国民の注目を集めた。
しかし29年の世界恐慌で世界中に失業者があふれ、日本の過剰人口は行き場を失う。その2年後に起きた満州事変で満州国が誕生すると、満州への移民事業が本格化する。27万人もの日本人が満州にわたり、そこで悲惨な敗戦を迎えることになった。
ドイツがフランスを占領して第二次大戦が本格化すると、フランスの敗因は産児制限と個人主義が生んだ少子化にあると分析された。近衛内閣は人口増加政策に転じ「産めよ殖やせよ」をスローガンに産児制限運動を弾圧した。
日本が敗戦を迎え、出征した兵隊たちが帰国するとベビーブームが始まる。日本を占領支配したGHQは、人口の急増と食料危機を日本政府に対応させる一方、人口問題には強い関心を示した。日本が再び軍事侵略を繰り返すことを恐れたからである。
GHQは日本の人口膨張を抑える協力者として、戦前サンガー夫人に感銘を受け産児制限運動に関わり軍部から弾圧された加藤シズエ氏をピックアップする。表では日本の人口問題に不干渉の姿勢を見せながら、日本人の手による産児制限導入をGHQは狙った。
加藤シズエ氏の自伝によれば、終戦直後にGHQの係官が自宅を訪れ、日本の民主化への協力を求められた。さらに戦後初の総選挙に立候補することを勧められ、加藤氏は婦人参政権の付与を条件に申し出に応ずる。こうして加藤氏は夫の勘十氏と共に社会党の女性議員になった。
GHQの狙いは米国の押し付けと見られずに、議員立法での優生保護法の成立を図ることだ。それは母体を保護する目的での人工妊娠中絶を認めさせることだった。日本政府内には米国の隠された意図を感じ、将来的に国家の滅亡につながるという反対論もあった。
しかし当時は闇の堕胎が頻発し、母体の保護を無視できない状況が生まれていた。こうして1948年に優生保護法が成立し、日本は世界でも例を見ない人工妊娠中絶を合法化した国となった。
すると日本に米国の人口学者たちが次々訪れ、人口調節の必要性を訴える。その結果、吉田茂総理は49年に米国の要求通り「産児制限」の受け入れを決めた。その年に日本のベビーブームはピタリと止まる。他国では10年ほど続いたベビーブームが日本ではわずか3年で終わった。
49年に10万件だった人工妊娠中絶件数が50年には3倍の32万件に増加する。さらに日本が主権を回復した52年には二度目の優生保護法改正が行われ、法律の適用が政府を離れ、個々の医師に委ねられ、日本は「中絶天国」になった。
「中絶ブーム」が到来し、57年に人工妊娠中絶は156万6713件、出生数が112万2316人になる。足せば268万9029人になり、ベビーブーム期と同水準だ。しかし中絶ブームで出生数はどんどん減少していった。
そして高度経済成長期を迎えると、今度は企業が家族計画を主導し始めた。子供の多い従業員は家庭での負担が増え、職場での事故や生産性の減少につながるという理屈だ。子供が少なければ企業にとって家族手当や医療費は軽減される。「子どもは2人まで」の受胎調節を企業が指導するようになった。
そしてベビーブーム世代が結婚適齢期を迎えた1970年代は、結婚ラッシュと出産ラッシュによって少子化から脱する機会であった。ところがどういう訳か74年に日本人口会議は「子どもは2人まで」のスローガンを世界に向かって宣言する。少なく産んで大事に育てるというのだ。日本は自らの手で少子化を脱する機会を潰した。
こう見てくると、日本は占領時代に米国から刷り込まれた意識に引きずられ、問題の本質を考えられなくなったという気がする。日本の平和主義のいい加減さも、食料自給率の低さも、少子化という国家の存亡にかかわる問題も、本質と離れたところでしか議論がなされていない。
日本人は「戦前・戦後」という言い方をして、前者は軍国主義で暗く悪い時代、後者は民主主義で明るく正しい時代をイメージするが、その間に7年間の「占領時代」がある。その「占領時代」を解き明かさないと、日本の問題は見えてこないのではないか。