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オズワルドはなぜ勝てなかったのか 『M−1』2021の暴力的な戦いの詳細

堀井憲一郎コラムニスト
(提供:Moonlight/イメージマート)

5対1対1での錦鯉の圧勝

『M−1グランプリ2021』は錦鯉が優勝した。

最終ラウンドに進んだのは、オズワルド、錦鯉、インディアンズの三組である。

最後の審査は、錦鯉5票、オズワルド1票、インディアンズ1票で錦鯉が圧勝であった。

M−1の最後の投票は、2回目のパフォーマンスだけで見るのか、1回目も考慮に入れるのかは明確にされていない。審査員にまかされてる。

ファーストステージでは「オズワルド」が頭ひとつ抜けていた。

審査員7人のうち、6人が最高得点をつけている(上沼恵美子だけ最高得点はインディアンズとハライチに入れた98点)。

優勝候補としてファイナルステージに進んだ。

オズワルドが優勝できなかった原因

「オズワルド」が優勝できなかったのは2本目のネタが原因だろう。

入りが1本目と比べて大人しかった。

1本目は「友だちと待ち合わせしたが二時間待ってもこなかった、よく考えるとおれ友だちいなかったんだ」という不思議な入りで、ここで客をつかんでいた。

ああ、変な世界へ連れていってもらえるのか、とわくわくする入り口である。

2本目は「ラーメン店に並んでいたら、横入りされた」という始まりであった。

不条理さがあまりなかった。それだけで弱さにつながるのが、いまのM−1の怖いところである。

人は「一夜にして人生が変わる瞬間」を見たい

オズワルドの魅力は、日常会話の延長で、どんどん笑わせていくところにある。

でも「M−1グランプリ」はちょっと尋常な世界ではない。

世間の注目度があまりにも高い。

お笑いに対する興味を越えて、「一夜にして人生が変わる瞬間」に対して強烈な注目が集まるようになっている。

人の人生が劇的に変わる瞬間は、誰だって見てみたい。

しかも「いいほうに変わる」瞬間である。リアルなドキュメンタリーショーとして、とても良質のコンテンツだ。

日本人が最近手に入れた、ひとつの宝物でもある。

テレビをリアルタイムで見ることが少なくなった若い世代も注目する数少ないコンテンツなのだ。

演芸場の雰囲気とはほど遠いM−1会場

優勝者は劇的に変わる。人生が変わる。

ここで優勝すれば成功者になれる。(少なくとも当面の成功者にはなれる)。

だから、会場の空気も異様である。

演芸場の空気ではない。

演者のネタも、尋常の演芸ではなくなってくる。

そういうなかで、オズワルドのネタは、2本とも、ゆるい演芸場でやれるネタであった。それでもここまで勝ち残るその腕がすごい。

そこは世間からも評価されている。

たとえば錦鯉のネタは、ゆるい演芸場で見るとすべる可能性がある。

ボケ(長谷川)の力が強すぎて、彼の発言が受けなかったら、いくらツッコミ(渡辺)が的確であろうと、それで大きな笑いは作れない。

錦鯉は張りつめたこの「特殊な空間」だから十全に受けた。

そういう芸を披露した彼らの圧勝であった。

ジャパニーズドリームに対する努力

「M−1グランプリ」の出場者レベルは格段に違ってきている。

「一夜にして有名人というジャパニーズドリーム」を掴むために各組が努力が尋常ではないのだろう。

本番での言い間違いがほとんど起こらないところをみても、その凄まじい努力が想像できる。血を流すほどに練習を繰り返しているさまが如実におもいうかぶ。

喋りと間合いの完成度がすさまじく高い。

さすがジャパニーズドリームの現場である。

完成度が高いがゆえに出てくる壁

そのぶん、あまりにきれいに完成されている、という形が見えることがある。

漫才は、ズレたことを言ったり、勘違いしたり、ふつうと違う言動を見せて笑わせるものである。

それに客は笑うのだけど、でもあまりに練習して磨き上げると「奇想天外がきれいに仕上げられている」と感じさせる瞬間があるのだ。

「M−1」の本番では、ときどき、ふっとそういう気配が流れる。

「めっちゃおもしろかった。おもしろかったけど……」

と見巧者におもわせてしまう。

その「……」の部分で差がついていく。

ランジャタイが目立った理由

だから錦鯉が強かった。

破壊の力が強かったからだ。

きれいに仕上げようとも、長谷川の乱暴さが目についてしまう。

そこの勝利である。

またそこがランジャタイが悪目立ちした理由でもある。

ランジャタイのネタも、予定調和を感じさせないほどに「破壊的」だった。

あまりに世界が不条理なのに、それを「ネコのかわいらしさ」だけで乗り越えていこうとする強引さがすさまじかった。

他のチームがもう少し丁寧で親切にまとめているなか、意味のわからないまま走りきったところに力強さがあった。

最低点だったのも含めて、逆に彼らの可能性はすごく高いとおもわれる。

錦鯉の漫才には「会話」がない

錦鯉の漫才は、二人のやりとりが存在していない。

設定を発表するときに一回やりとりがあるだけである。

「50歳の合コン」ネタでは、長谷川が「こんど後輩と合コンに行くんだよね、練習するから見ててよ」と渡辺に声をかけて「練習するの?」「そうだよ、見てて」と設定のための会話が一回あって、その後、会話が一回もない。

2本目の「猿を捕まえる」ネタでも「街中に逃げた猿を捕まえたいんだよね」「あんなの業者に任しときゃいいんだから」「業者ヘタじゃん。おれのほうが捕まえられるからね」という会話があって、その後、会話が一切ない。

渡辺は、長谷川が客に向かって一人でボケているのを、うしろからツッコみ続けるばかりである。

長谷川はツッコミにまったく反応しない。

本来のオーソドックスな漫才ではない

審査員のナイツ塙が言っていたように「ボケだけで笑える漫才」である。

でもボケが笑いを取れなかったら、延々とすべりつづける舞台になる要素がある。

でも本人たちは気にせずやり通す。

すさまじく力強い。ほぼ暴力的である。暴力なのは頭をはたく渡辺ではなく長谷川が発する言葉だ。

彼の発言が何かを壊しつづけて、前に進んでいく。

2021年の我々は、その姿に強く惹きつけられてしまったのだ。

ボケ暴走する錦鯉

錦鯉は、長谷川はいつもどおりに無謀に突っ走り、それをツッコミの渡辺が実に見事に制御しきったという漫才を見せた。

1本目も2本目も、その制御の見事さは変わらなかった。

だから優勝したのである。

ボケの暴走というところでいえば、爆笑問題も同じタイプだった。若いころの爆笑問題は、ときにツッコミの田中の調子が悪いと、太田がただ悪ふざけしつづけているだけで、正視できないことがたまーにあった。

錦鯉の出来上がりの芯はツッコミの渡辺にある。

それはインディアンズでも同じだ。

インディアンズのおもしろさはツッコミの「きむ」の技にかかっている。

手綱をほんの少しでも緩めてしまうと、田渕はただのノイズにしかならない。

インディアンズのボケツッコミの妙

インディアンズの漫才には、会話はある。

漫才の入りは、ツッコミのきむが「怖い動画を体験したい」「売れて忙しくなりたい」と設定して、彼のやりたいことから漫才は始まる。

そこが少し変わっている。

田渕は最初はきちんときむと会話している。本来はツッコミの立ち位置だからだ。

基本に会話のやりとりがある。そのあと会話をふくらませるようなフリをして、田渕が暴走する。そこで笑いを取る。

おそらく上沼恵美子に高く評価されたのは、この「会話が基本にあった」という部分だったのではないか。

オーソドックスなオズワルド

オズワルドはこの2組に比べると、オーソドックスな漫才を披露する。

ほぼ登場した立ち位置のまま、4分間の漫才をやり通す。

動きもさほど多くない。このスタイルは海原千里だった上沼恵美子やオール巨人の1970年代の漫才スタイルと変わっていない。

でも、漫才の目的は、型を守ることにはない。

落語と違い、みんなで同じネタを共有してそれを二百年受け継いでいるという伝統はない。

ネタはだいたい演者本人が考える。スタイルも自分たちで作る。

だから「ジャパニーズドリーム」となっているのだ。

そして長年審査員をやっている上沼恵美子やオール巨人は、そのことをよくわかっていて、正当か邪道か(1970年代でも通用するかしないか)ではいまはもうジャッジしていない。

いまここでおもしろいかどうか、それで判断している。

インテリがバカに負けた瞬間

オズワルドが、1本目をトップで駆け抜けたのは、ネタの不条理さが強かったからだろう。世界観が強く、他の新しい漫才に負けない「奇妙なおもしろさ」を持っていた。

開始1分で、ボケの畠中が言い出す奇妙な世界に引き込まれ、その「友人を何とかして手に入れよう」という不気味な姿勢で最後まで笑わせる。

2本目は、入りが「ラーメン店行列の横入り」で始まった。ふつうの話である。

不条理さは、伊藤のアドバイスを聞かずに自分で勝手にやりとりを創り出す畠中の言葉に出てくる。

ひねりが2つ入って、頭のいい人向けになってしまった。

街中の猿を捕まえたいと言って、暴れ回る猿並の男、にはかなわない。

まさに、インテリが、バカに負けていく姿を見せつけられているようだった。

しかたない。そういう現場なのだ。笑いを取ったほうの勝ちである。

2022年のオズワルド

惜敗したオズワルドは、つまり来年の優勝候補でもある。

今年の1本目の強さと、2本目の弱さを痛感したはずだ。

来年の1本目と2本目はどういう組み合わせで来るのか、さらに強化させられるのか。

いまから楽しみにしている。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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