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劇場版『鬼滅の刃』はなぜ歴史的なヒット映画となったのか その細部に宿った「突破力」をさぐる

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:西村尚己/アフロ)

劇場版『鬼滅の刃』は突破する力のすぐれた作品である

『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』は予想を超えた歴史的なヒット映画となった。

この時節だからこその異様な人気だったとおもわれる。

物語は、鬼が人を喰らっていた時代、その鬼を退治する部隊の話である。

映画化されたのは、長い話の一部だけだ。

原作漫画の話数でいえば全205話中の54話から66話までなので、全体の1/4のところから始まって1/3のあたりまでの話である。

全体の一部の話だったが、それでも強く人の心を掴んだ。

作品の持つ力が強かったからだろう。

それも「突破する力」が強かったからではないか。

映画を何度も見ているうちにそうおもった。

バランスのとれた作品として人を包むというより、部分部分がとても強く作られ、それが鋭く多くの人に刺さったのではないかということだ。

映画を12回見てわかったこと

もともと雑誌連載中から『鬼滅の刃』好きだったこともあって、映画は12回見た。映画館に行って12回見た。

途中からは、何回見続けたら心揺さぶられないで見終わることができるのか、つまり作品に慣れてしまうのか、それを知りたくなって見に行き続けた。

でも無理だった。

12回見ても、初回見たときと同じくらいに、ひょっとしたらそれ以上に、見ていて心を揺さぶられた。早い話が何回見ても泣いてしまう。

ほぼ全シーン、ほとんどのセリフを覚えてしまっているが、それでも心動かされる。

日本国中を巻き込む作品の力というのは、そういうものかとあらためておもいしらされる。

原作の力強い部分を切り取ることができた劇場版『鬼滅の刃』

劇場版『鬼滅の刃』無限列車編は、原作漫画や、ここまでのアニメを見ずとも、これだけを見てもこの世界がわかるように作られている。

原作の「わかりやすい部分」をうまく切り取ることができた、というのが大きいのだとおもうが、映画作品としてまとまりがいい。

「鬼殺隊と鬼との対決の最後の顛末」まではわからないが、この一本を見るだけでひとつの別世界を充分に堪能できる。

とはいえ、見終わったあと、世界観全部で人を深く包み込むタイプの作品ではない。

個々のシーンが鋭く突き刺さり、それが忘れられないというタイプの映画である。

いまの私たちに直裁的に鋭く突き刺してくる作品だ。

おそらく細かいシーンに強い力が込められていて、前後とかかわりなく、見ている人の心に深く刺さってくるからだとおもう。

炭焼き小屋で暮らしていたころの竈門炭治郎

12回見て、毎回、必ず打たれてしまったのは二つのシーンである。

一つは、主人公の炭治郎の夢の中のシーン。

下弦の壱の鬼・魘夢に見せられた「五人の弟妹と母との生活シーン」である。

炭治郎はかつて炭焼きをして、母と弟妹と山の家で過ごし、炭を麓の町へ売りに行って暮らしていた。いまも同じように暮らしているかのような夢を見る。夢だとわかっていても、気持ちがあったかくなるシーンだった。

でもそのまま夢の世界に留まっていると、魘夢に殺されてしまう。

だから炭治郎は覚醒して家を飛び出す。それを家族が追いかける。

そのシーンである。

家族に背後から声を掛けられ、炭治郎は一瞬、立ち止まるが、振り返ることはない。

気持ちをおさえ、振り返らない。

日中に山菜を採りに行っていた禰豆子とも遭遇するが、でも振り返らない。

振り切って走り去る炭治郎のうしろで、母と弟妹たちが、また互いにいたわりあうような仕草を見せている。

あそこのシーンに心打たれてしまう。背後でいたわりあう家族の気配。

そこにいろんな心情が込められていて、揺さぶられてしまう。

それはかつて炭治郎が穏やかに過ごしていた世界であり、そしてそれは二度と取り戻すことがない世界である。

胸に迫り、せつない。

炎柱・煉獄杏寿郎の母の言葉

もうひとつは、「上弦の参の鬼・猗窩座」と煉獄杏寿郎の戦いのシーン。

煉獄杏寿郎にまつわるシーンには、いくつもの心打たれるところがあるが、私に強く突き刺さってきたのは、母とのシーンである。

これは見る回数を重ねるほど響いてきた。

煉獄杏寿郎の母は「なぜ、自分が人よりも強く生まれたのかわかりますか」と問いかける。そういうシーンを煉獄杏寿郎はおもいだしている。

幼い杏寿郎はそれには答えられず、母が教え諭す。

「弱き人を助けるためです」と語る母の凜とした姿には、強くやさしさも込められ、映画を見たあとまで、彼女(煉獄瑠火)の言葉はずっと心に残る。

この問いかけを踏まえて、猗窩座との戦いの終盤に、母上、俺のほうこそあなたのような人に生んでもらえて光栄だった、と心の中で叫びつつ、煉獄杏寿郎はより深く鬼の首に刀を入れていく。

そして、戦いのあと、朝陽のなか、煉獄杏寿郎の目には母の姿が見える。

「立派にできましたよ」と微笑む母の姿は何度見ても、そして12回見たあとおもいだしても、心を揺さぶられる。

「母と子」のシーンがまた映画『鬼滅の刃』の突破する力となっていた

この二点が私は心に刺さってきた。

気がつくと、どちらも家族とのシーン、とくに「母と子」のシーンである。

「自分のことをとても大切におもってくれる人の言葉」それが響いてくるのだ。

それは物語を離れても、そこだけで人の心に響く力がある。もちろん話の文脈にのっかることによってより強く迫ってくるのだが、でもそのエピソードだけでもじゅうぶんいろんな人の心に染み渡る。

「突破する力」というのはそのへんのことを指している。

母と子、というのはこの映画の強い突破力の源になっている。

もちろん感銘を受けるのはこの二つのシーンだけではない。たくさんある。

嘴平伊之助のギャン泣き。竈門炭治郎の叫び。煉獄杏寿郎の静かな語り。鎹鴉の涙。

見る人が違えば、刺さってくるシーンは違ってくるだろう。

私も12回見ているうちに、刺さるシーンはいくつか変わっていった。

おそらくどんな人にも、深く刺さるシーンがどこかに用意されているとおもう。

そのディテールの丁寧さが、この映画を日本でもっとも多くの人に見られた作品にしたのだとおもわれる。

「エンドロールでもっとも人が立たなかった映画」

もうひとつ、映画館で12回見て気がついたこと。

映画が終わり、エンディングになっても誰も席を立たないのだ。

ほんとに一人も立たない。

エンディングロールが流れ、音楽が流れ、それが終わるのをみんなじっと見ている。

厳密にいうと、12回見たうち、かなり初期のころ混雑した新宿歌舞伎町の映画館で、エンディングロールの途中で帰って行ったカップルが1組だけいた。

でもそれだけだ。

東京にかぎらずいろんな地域で見たのだが、この1組以外、誰も席を立つのを見たことがない。

これだけの大ヒット映画だから、たぶん、さほど作品におもいいれもない人も多いはずで、そういう人はすぐに席を立ちそうなものなのに、でもそれがいなかった。ほんとにいなかった。いつも気をつけていたが、誰も立たなかった。

12回見て2人しか立っていない。

すごく混んでるときも、かなりすいてるときもあったから、12回で一緒に見た観客数は千人から二千人のあいだくらいだろうか。それで立ったのが2人だけだった。

「21世紀になって映画本編が終わって、エンドロールが流れているあいだも、席を立つ人がもっとも少なかった映画」として記憶されてもいいとおもう。

エンディング曲を最後まで聞きたかったという人も多いのだろうが、それもまた映画の力である。

細部の突破力で、世界を切り開いていった映画である。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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