【その後の鎌倉殿の13人】北条泰時が熊野から補陀落渡海して亡くなった友にかけた言葉とは?
天福元年(1233)5月27日。鎌倉幕府の執権・北条泰時は、幕府御所に参上し、一通の書状を、4代将軍・藤原頼経の御前にて披露しました。それは、熊野の那智浦からの消息でした。その手紙は、熊野那智浦より、補陀落渡海した者がいることを告げるものだったのです。補陀落渡海とは、補陀落浄土を目指して、小舟で単身渡海すること。補陀落とは、インドの南海岸にある山で、そこに観世音菩薩が住んでいると伝えられていました。観音菩薩が住む補陀落山に往生することを願う観音信仰の表出とも考えられますが、決死の行動でした。先ず、この時、渡海を決行したのは、智定坊、俗名は下河邊六郎行秀です。行秀が渡海を決行したのは、書状によると、些細なことではありました。
きっかけとなったのは、源頼朝の在世中に行われた下野国那須での狩猟。頼朝は、行秀に大きな鹿を射るように命じます。ところが、行秀が放った矢は当たらず。小山朝政が鹿を射ることになるのです。これを恥じてか、行秀はその直後に髻を切り、出家。逐電し、行方不明となったのでした。近年は熊野山にて法華経を読誦していたようですが、結局、行秀は補陀落渡海を実行するに至ったのです。行秀は書状を泰時に進上するように言い置いたとのこと。行秀の手紙には、在俗の頃から、出家した後のことまでが詳細に記されていました。その手紙は、中原親実が読み上げたのですが、周囲にいた男女は皆、涙を流したそうな。泰時は「昔、弓馬の友だった」と言葉を発したといいます。補陀落渡海の際に使用する船は、船上の小屋に入ると、外側から釘を打ちつけます。扉はありません。暗闇の中、小さな燈火だけが頼りとなります。30日分の食料と灯油を用意するだけで船出する決死行でした。行秀の出家の契機を些細な事と書きましたが、当時の武士からしたら、それは重大なことだったのです。現代人との価値観の差を垣間見ることができます。