正義訴え不法投獄、人権活動家フレッド・コレマツの人生を辿る ── 日系人強制収容から81年
1941年12月7日(現地時間)、日本海軍は真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まった。
アメリカでは日系人も「敵」と見なされ、2ヵ月後の42年2月19日、フランクリン・D・ルーズベルト大統領(当時)により「大統領令9066号(Executive Order 9066)」が発令された。
これにより、主に西海岸に住んでいた12万人の日系人(うち3分の2はアメリカ生まれのアメリカ市民)が突然、自宅や事業、財産を没収されて収容所送りとなった。日本にルーツがあるという、ただそれだけの理由で。
日系人12万人が突然自由を奪わる(42年)
- 日系人の立ち退きを命じた張り紙。
これに対し「そんなのおかしい」「絶対に収容所なんて入らない」と異を立てた人物がいた。日系2世のフレッド・コレマツ(是松豊三郎、Fred Toyosaburo Korematsu)氏だ。
彼は日本から移民し苗木生産業を営んでいた両親の下、1919年1月30日にカリフォルニア州で生まれ、アメリカ社会で育った。大統領令9066号が発令した際、23歳だった彼は、何も悪いことをしていない人を収容所に入れるなんて間違っていると、政府からの命令を断固拒否した。
5月に逮捕されるまで、彼は日本人に見えないようにするために目の整形手術を受け、スペイン人とハワイ人の子孫のクライド・サラ(Clyde Sarah)と名乗り、身を隠した。
「強制収容の不当性と違法性を主張し『絶対に入らない』と言い続け国を提訴しましたが、有罪判決が下されました。しかし最後まで諦めず、信念と正義のために闘った、公民権運動の先駆者です」
ニュージャージー州在住の日系3世、古本武司さんはコレマツ氏についてそう説明する。古本さん自身、カリフォルニア州のトゥリーレイク強制収容所で生まれ、現在は不動産事業をする傍ら、コレマツ氏の生き様や平和の尊さを伝える活動をしている。
刑務所と収容所に2年以上も収監されたコレマツ氏は、そこでも孤立した存在だったようだ。アメリカへの忠誠を誓い、和を重んじる人々からトラブルメーカーとして見られていた。それでも彼は「間違いは間違い」と、最後まで信念を曲げなかった。
「強制収容は人種差別ではなく軍事上必要」と最高裁(44年)
不当逮捕、投獄されたコレマツ氏に弁護士の支援者も現れ、42年の有罪判決後に最高裁まで上告した。しかし44年12月、強制収容は人種差別ではなく軍事上必要だったと正当化され、彼にとって不利な判決が最高裁でも下され、前科者としてのレッテルが彼の人生について回ることとなった。(コレマツ対アメリカ合衆国事件 Korematsu v. United States)
「強制収容は憲法違反」と有罪判決の覆し(83年)
しかし37年後の82年1月、法史学者や活動家により「日系人による諜報(スパイ)活動は事実無根」「強制収容は憲法違反」が証明されると、コレマツ氏は再び国との対決を決意。そして翌年11月、サンフランシスコの連邦地裁でついに有罪判決が覆され、犯罪歴が抹消されることが確定した。これを受け、コレマツ氏は「人種・宗教・肌の色に関係なく、あのような扱いをアメリカ市民が二度と受けないようにしてほしい」と訴えた。
米政府、日系人へ謝罪と補償へ(88年)
生涯を活動家として捧げたコレマツ氏は、日系人が国からの謝罪と補償金を受けられるようロビー活動も支援した。それが実り、88年にはレーガン大統領(当時)が人権擁護法(Civil Liberties Act of 1988)に署名。大統領からの謝罪の手紙と補償金2万ドルが、日系人の生存者および遺族全員に贈られた。
98年には大統領自由勲章(民間人への最高位の栄誉)がクリントン大統領(当時)により授与されている。晩年は9.11後に深刻化したアラブ系米国人への差別反対を訴えた。
2005年3月、86歳で生涯を閉じた。死後、彼の生涯を讃え、生誕日(1月30日)を「フレッド・コレマツ・デー(Fred Korematsu Day of Civil Liberties & Constitution、市民の自由と憲法のフレッド・コレマツの日)」と定め、人権や差別問題、正義への理解を深める動きが進んでいる。アメリカでアジア系米国人にちなんで名付けられた初の記念日でもある。
10年にカリフォルニア州で法案が通過したことから始まり、ハワイ州、バージニア州、フロリダ州、ニューヨーク市、アリゾナ州でも制定され、ユタなど他6州では布告も進んでいる。
- 「強制収容に対する彼の抵抗を讃えます。二度と(同じ過ちを)繰り返さない」と、ACLU(アメリカ自由人権協会)。ちなみに囚われの身だったコレマツ氏の正義を果たすため支援を買って出たアーネスト・ベシグ(Ernest Besig)氏も同協会所属の弁護士だった。
「正しいと思う方に立ち上がり、問題提訴を恐れてはなりません」─ フレッド・コレマツ
没後「フレッド・コレマツの日」が制定
前述の古本さんも自身が住むニュージャージーでの制定に向け、州政府に働きかけてきたが、昨年暮れに動きがあった。
古本さんら活動家の働きかけが実り、4年前にフォートリー市(ニュージャージー州)で制定されていたのに続き、昨年12月に同州でも法案が可決され、今年1月30日にフレッド・コレマツの日が制定された。
- 「1月30日をフレッド・コレマツの日と定め、第二次世界大戦中の日系人の不法収監と闘った公民権活動家を称えます。不正に対する彼の闘いを決して忘れてはなりません」とニュージャージー州のフィル・マーフィー知事。
「アメリカの政治システムが正しく機能していることが証明されました。未来の行方は、我々一人一人の意思次第です」と、この日を迎えた古本さんは胸を撫で下ろした。「法案通過まで2年半もかかりました。小石を一つずつ動かすような活動でしたが、小石が集まると山になります。価値のあるものは達成まで時間がかかりますが、諦めなければ最後に勝利を収めることができます」。
同州での記念式典には、コレマツ氏の長女カレンさんもサンフランシスコから出席した。
戦後、コレマツ氏は結婚し2人の子を儲けたが、収容所時代や訴訟の話をすることはなく、カレンさんは高校の授業で友人を介して詳細を学ぶまで父親がどのような人生を歩んできたかを知らずに育った。
帰宅し問うと、父は静かにこのように言った。「自分は正しいことをした。政府は間違っていた」。
「父は国に忠誠を誓ったアメリカ人なのに、日本名を持っているだけで国から不当な扱いを受けました。この国にはいまだに人種や民族の差別があるが、これらはすべて無知が原因です。『正しいと思う方に立ち上がり、何かおかしいと感じるなら問題提訴を恐れてはならない』という父の信念を胸に、この国がより良い場所になるようこれからも教育活動を続けていきます」
カレンさんはこのように決意を新たにし、最後にこう付け加えた。
「父の人生を通して教えてくれたのは、たった1人でも変化を起こし不正を正すことができるということでした。40年かかったとしても、最後まで諦めなければ」
参照
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(Text by Kasumi Abe)無断転載禁止