「アラブの春」第2幕――スーダンの「民主化」が示すなりゆき任せの日本
- 半年に渡る抗議デモの末、北東アフリカのスーダンでは軍事政権が民政移管を約束した
- 先行きは不透明だが、これはスーダンの民主化の第一歩と評価できる
- この変動は軍事政権と悪くない関係にあった国にアプローチの修正を余儀なくさせているが、そのなかには日本も含まれる
中東のいくつかの国では民主化を求める動きが活発化しているが、とりわけスーダンでは抗議デモが軍事政権の譲歩を引き出すことに成功している。この変動はスーダン政府と良好な関係を保ってきた各国に方針変更を余儀なくさせているが、そこには日本も含まれる。
対立する者との共存
軍事政権への抗議デモが続いていた北東アフリカのスーダンでは7月5日、軍とデモ隊の間で民政移管に向けた合意が結ばれた。
それによると、民政移管に向けた暫定政府を発足させ、そこに軍とデモ隊がそれぞれメンバーを出し、最初の21カ月を軍が、それからの18カ月を文民が、それぞれ責任を負うことになる。
敵対しあってきた者同士が権力を分け合い、お互いに監視することで共存を目指す手法は「権力分有(Power sharing)」と呼ばれる。軍の影響力が残ることに一部から不満も漏れているが、デモ隊は総じてこの合意を歓迎している。
合理的な妥協
権力分有はスーダン民主化の第一歩と評してよい。
この国では1989年から30年間にわたってアル・バシール大統領(当時)が権力を握ってきたが、生活苦などを背景に昨年末頃から抗議デモが拡大。これを受けて、4月にバシール氏は辞任したものの、バシール氏を支え続けてきた軍が暫定政府を樹立し、幕引きを図った。
いわば「トカゲの尻尾切り」で済まそうとすることへの反発から、デモ隊はその後も軍本部前での座り込みなどを続けた。6月2日、これを強制的に排除しようとした治安部隊や政府を支持する民兵組織「迅速支援部隊」が発砲し、118名以上の死者を出すなど、スーダン情勢は悪化したのである。
この背景のもと、アフリカ連合(AU)や隣国エチオピアの他、アメリカ、イギリス、ノルウェーの欧米3カ国(トロイカ)による働きかけもあり、軍事政権は権力を握り続けることを諦め、権力分有に舵を切ったのだ。
これに対して、先述のようにデモ隊の一部からはバシール氏の責任追及などが不明確といった不満も出ているが、この時点で旧体制の責任まで追及すれば、権力分有すら実現しなかった公算が高い。その意味で、この合意は軍事政権とデモ隊が、それぞれの死活的利益を守りながら折り合いをつけたものといえる。
このスーダンの「成功」は、やはり事実上の軍事政権への抗議デモが続いているアルジェリアなどの近隣諸国にも影響を及ぼすとみられる。
リバウンドの懸念
とはいえ、スーダンの民主化がさらに進むかは、大きく2つの条件によって左右される。
第一に、旧体制派による巻き返しだ。
7月12日、軍事政権はクーデタ未遂事件に関与した12名を逮捕したと発表した。冷戦終結直後の1991年のソ連軍によるクーデタのように、体制が転換するときにはこれに反対する蜂起が起こりやすいが、スーダンのように軍が政治、経済の実権を握ってきた国では、なおさら既得権を失うことを恐れる反動は大きくなりやすい。
これに加えて、イスラーム過激派の活動も懸念される。
バシール元大統領はスーダン西部のダルフール地方での虐殺を指示した嫌疑で国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状を発行されているが、これを実行したといわれるのがイスラーム組織ジャンジャウィードだ。やはり旧体制派といえるジャンジャウィードは近年、迅速支援部隊に改称し、デモ隊への襲撃を繰り返してきた。
今後、権力分有が進めば、こうしたテロ活動が活発化する懸念は大きい。
生活の不満
第二に、生活の不満だ。
多くの場合、民主化や革命は民主主義の理念そのものより生活の不満で発火しやすいが、そこには「独裁が終われば自分たちの生活はよくなる」という期待がある。
しかし、体制の転換と生活の安定は必ずしもイコールでない。そのため、民主化後に経済成長が実現せず、治安が悪化したりした場合には、「強いリーダーシップ」の名の下で強権的な支配者が誕生することも珍しくない。フランス革命後の混乱のなかからナポレオンが登場したことはその典型だが、「アラブの春」の後に軍事政権に逆戻りしたエジプトの事例もこれに当てはまる。
スーダンの場合、もともと石油以外にこれといった産業がないうえ、油田の8割を抱えていた南部は2011年に南スーダンとして分離独立し、さらに2014年からの資源価格下落によって、経済は混迷の淵にある。体制転換後、これが回復しなければ、民主化への期待は失望に転換しやすく、それはイスラーム過激派の台頭を促しかねない。
スーダン情勢と日本
こうしたスーダン情勢は、各国にとっても無関係ではない。
旧体制による人権侵害を問題視し、バシール元大統領を批判してきた欧米諸国にとって、この政変は進出の好機だ。これと対照的に、バシール政権と関係の深かった国は、多かれ少なかれアプローチの修正を余儀なくされる。
実際、スーダン専門職組合など抗議デモ隊は「軍事政権を支えた外国」への非難を強めている。
バシール政権と友好関係にあった国の代表としては、イスラームのスンニ派が多数を占める国への締め付けを強めてきたサウジアラビアや、スーダンの最大の貿易相手国である中国があげられる。
とりわけ中国は、スーダンでの油田開発を進めてきた一方、バシール元大統領を国際的な制裁から守ってきた。6月2日、デモ隊の強制排除で多数の死者が出たことを受け、アメリカなどが国連安保理でスーダン軍事政権を非難する決議が審議されたが、中国はロシアとともに「内政不干渉」を盾に拒否権を発動している。
ただし、これほど露骨でないとしても、日本も他人事ではない。
「内政不干渉」を重視する日本政府は、発砲でデモ隊に死者が出た際にこれを非難する声明を出したものの、8月に横浜で開催される予定の東京アフリカ開発会議(TICAD)でのスーダンの参加資格についてはこれといった対策をとっていなかった。
普段であれば「身内に甘い」アフリカ諸国の間でも軍事政権への批判が高まっていたなか、日本の対応は甘いと言わざるを得ない。
今後、日本政府はデモ隊出身者も参加する暫定政府と新たな関係を築かなければならないが、「政治の安定」の名のもと「内政不干渉」の原則に縛られるあまり相手国の一般の人々の生活実感や苦悩を軽視した態度であることが外交においてかえってビハインドになり得ることを、スーダンの事例は改めて示しているといえるだろう。