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関ヶ原合戦で西軍を裏切った小早川秀秋のルーツと毛利氏の関係

森岡浩姓氏研究家
関ヶ原古戦場跡(筆者撮影)

関ヶ原合戦では、中仙道から向かった徳川秀忠軍が間に合わなかったため、西軍の方が軍勢が多かった。

そのため当初は西軍有利であったが、松尾山に布陣していた小早川秀秋が突如裏切って西軍の中枢大谷吉継を攻撃したため一気に崩壊、1日もかからずに東軍の圧勝で決着した。

いわば秀秋は東軍勝利最大の功労者なわけだが、5日の大河ドラマ「どうする家康」に突如「寧々の甥」として登場、これまでとは違って自らの意志で東軍に転じたと描かれたこの小早川秀秋とは一体何者なのだろうか。

毛利三矢の教え

さて、戦国時代に興味のある人だと「毛利三矢の教え」という話はご存じだろう。

一介の国衆から中国地方の大大名となった毛利元就は、孫の輝元と、それを補佐する「両川」と呼ばれた二男吉川元春と三男小早川隆景の二人に「1本の矢はすぐに折れるが、3本合わされば折ることはできない」として、3人で力を合わせて毛利家を守ってゆけと諭したという逸話である(史実ではない)。

この小早川隆景のあとを継いだのが秀秋である。

小早川氏のルーツ

小早川氏はもともとは独立した安芸の戦国大名であった。桓武平氏の一族で、「鎌倉殿の13人」にも登場していた土肥実平が祖。実平の子遠平は相模国足柄郡早川(現在の神奈川県小田原市)に住んで「早川」と名乗った。

合戦後、遠平は平氏没官領の安芸国豊田郡沼田荘(現在の広島県三原市本郷町)の地頭に補せられた。しかし、遠平の嫡男維平は土肥宗家を継承したことから、平賀義信の五男景平が養子となって沼田荘を継ぎ、以後は小早川氏を称した。

承久の乱後には賀茂郡竹原荘(現在の広島県竹原市)の地頭職も得たことから、のちに沼田小早川氏と竹原小早川氏の二流に分裂。それぞれ多くの庶子家を出し、室町時代には大三島を除く芸予諸島のほぼ全域を支配する有力武家となった。

戦国時代も有力国衆として活動していたが、竹原家の興景に子がなく毛利元就の三男隆景が養子となって継いだ。これが名将小早川隆景である。

一方の沼田家では当主正平の嫡男繁平が盲目であったことから、繁平の妹問田大方を隆景の妻として隆景のもとに両家を統一し、以来小早川氏は事実上毛利家の重臣となった。

小早川秀秋の登場

ところで、隆景には実子がいなかった。そこで、秀吉の妻寧々の甥である秀俊を養子として迎えたのだが、これは秀吉が秀俊を毛利家の養子に送り込もうとしたことを察知して、自ら引き取ったものともいわれる。

秀俊は隆景が病死すると跡を継いで小早川秀秋と名乗り、慶長の役の際には総大将として渡海したものの、大将らしからぬ行動をとって帰国させられ蟄居。4年後には許されて旧領を復活したが、この頃にはかつての家臣は毛利家に引き揚げており、小早川家はもはや毛利家とは別の家となっていた。

従って、関ヶ原合戦で突如東軍に内応したのは毛利家の意思ではなく、秀秋独自の判断であった。合戦後は岡山藩55万石の藩主となっている。

姓氏研究家

1961年高知県生まれ。早稲田大学政経学部在学中から独学で名字の研究をはじめる。長い歴史をもち、不明なことも多い名字の世界を、歴史学や地名学、民俗学などさまざまな分野からの多角的なアプローチで追求し、文献だけにとらわれない研究を続けている。著書は「全国名字大辞典」「日本名門・名家大辞典」「47都道府県・名字百科」など多数。2017年から5年間NHK「日本人のおなまえ」にレギュラー出演。

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