映画『宮松と山下』の香川照之で考える、名優の条件
サン・セバスティアン映画祭で見た日本人監督3作を面白かった順に並べると、『宮松と山下』、『百花』、『ベイビー・ブローカー』となる。ノミネートされていた新人監督賞は獲れなかったが、受賞作『FIFI / SPARE KEYS』よりも面白かった。
だからぜひ見て欲しいのだが、この作品は特に予備知識ゼロで見た方がいい。サプライズが、笑いとどんよりとした空気の謎解きに大いに関係しているからだ。
オフィシャルサイトのリンクを一応文末に貼っておくが、白紙で見た方が絶対に笑えるし驚ける。
検索すると、「主人公は○○の××」で始まる紹介記事がいくつも出てきたが、もうそこで台無し、という作品である。
■喜びながら怒れる人
なので、この作品を面白くしている香川照之の名演について書く。彼はうまいの一言だ。
そのうまさは、「曖昧な感情表現」に凝縮している。
「喜怒哀楽」は俳優なら誰でも表現できる。別々になら。だが、喜と怒の間、喜びと怒りが入り混じった感情は、どう表現すればいい?
どういう顔、どういう目線、どういう素振りをすれば、怒りと哀しみが同居していることに説得力を与えられる?
演技のうまい人は、例えば「狡猾さ」を表情に出せる。
香川の出演したCMで、腹囲を測定する同僚を覗き込み、へへへと口を歪めるのがあった。
あの覗き見するという下衆な心と、腹をへっこめるなよという警戒心と、俺の腹は出ていないという見栄と、羨望と、嫉妬、サラリーマンの身体測定という非日常感がすべて含まれた、どこか間抜けなような、同僚を出し抜くような表情――。
いつ見たCMかわからないが、今も強く印象に残っている。
■“素の香川照之”が読めず不気味
香川の場合は、得体の知れなさ、腹に一物がある感が濃厚に出ている。
バラエティ番組で大笑いしている時でさえ、本気で笑っていないんじゃないか、いきなり素になって怒鳴り出すんじゃないか、という危険な香りが出ている。
CMに出ているということは、庶民の代表ということなのだけど、凡人は演じているだけで凡人ではないことがわかる。
裏表のない善良な人ではなく、善良さは演技であって裏には怖い何かが隠れているような感じが、演じてないはずの対談番組でも、見える時がある。
美男ではないので、手が届かない存在には見えない。低い場所から見惚れるような近づき難さはない。
だが、別の意味の近づき難さはある。いると現場の空気が一変するといったカリスマは必ずある。
演技がうますぎて、自然体とか素の香川がわからない、どれが本当の香川だかわからない、というのは、素晴らしい俳優だからで、それが本音が読めない、という不気味さに結び付いている。
■サイコを無表情でしか演じられない人は…
もう一つ私が名優の基準にしている役を言うと、それはサイコパスだ。サイコパスを説得力を持って演じられる役者は、演技がうまい。
サイコパスは共感性に欠けるとされる。だから血も涙もない連続殺人が犯せる。
この共感性のなさを「無表情で表現する」役者がいる。能面のような顔で、女性や子供でさえ毒牙に掛けて何の後悔もない。
が、これは一面的なサイコパスの表現だと思う。
実際には、全能感の持ち主でプライドの塊で人を小馬鹿にしたような面もあるし、連続殺人が達成感や快楽に結び付いているような猟奇さも持ち合わせている。
他人には共感できないが、自らの感情には身勝手に敏感で、計算高く頭の回転も良い。
だから、日常生活で円滑な人間関係を築くには苦労しない。
こうした多面的な人格は、無表情では描けない。日常は笑顔で、殺人の瞬間だけ無表情、という使い分けも違う。正解は、笑顔と無表情のミックスだと思う。
笑顔の中に冷淡さがある。冷酷だが満喫している、というような。
『宮松と山下』の主人公には裏がある。
いや、正確に言うと、どっちが裏でどっちが表かわからない。よって、香川照之でなければ演じられなかった。もちろん、彼はサイコパスを演じさせても抜群だ。
※写真提供はサン・セバスティアン映画祭
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