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【関根勤】盟友・小堺一機とともに歩んだ、ドタバタ芸能生活50周年

ボブ内藤編集者、ライター、インタビュアー
撮影/八木虎造

2024年2月、扶桑社から芸能生活50周年記念エッセイ『関根勤の嫌われない法則』を上梓した関根勤さん。アドラー心理学を題材にしたベストセラー本『嫌われる勇気』にアンチテーゼを投げかける問題作……、というわけではなく、「関根さんを嫌いな人は芸能界にひとりもいない」との世間の評価に対して、関根さん本人が真摯に人生と向き合い、「嫌われない法則」を分析した笑いと感動の書だ。

そんな関根さんに、新人時代から苦楽をともにした盟友・小堺一機さんをはじめ、人生の指標を示してくれた萩本欽一さんとのエピソードについて、語ってもらおう。

多くの人たちとの出会いに支えられてきた50年だった

2024年で芸能生活50周年をむかえた「芸能界一嫌われない男」こと関根勤さん。

今から50年前にデビューしてから現在に至るまでを思い返すと、やはり、いろいろな感慨があるようだ。

この50年間をふり返ってみると、「運がよかった」という言葉がまっ先に浮かんできます。何より、多くの人との出会いが僕をここまで連れてきてくれた。そういう感慨があります。

デビューのきっかけを与えてくれた浅井企画の初代社長の浅井良二さん、それから同じ事務所に所属して苦楽をともにした小堺一機くん、そして、僕ら二人の永遠の師匠である萩本欽一さん。この人たちとの出会いがなかったら、今の僕は間違いなくなかったでしょうね。
「同僚」とも言える、出演者やスタッフとの出会いにも恵まれました。
僕は東京出身だけど、関西から(明石家)さんまさんが30歳前後に東京にやってきたときは心強い思いがしたし、『笑っていいとも!』(フジテレビ)や『ジャングルTV』(毎日放送)といった番組でご一緒したタモリさんとも、30年以上にわたる長いお付き合いをさせていただいてます。

そのほか、数えあげていけばキリがないほど、多くの人との出会いに僕は支えられてきたんだなぁと感じます。

「先輩・後輩」という間柄で出会った小堺一機との初対面

そんな数多く出会いのなかで、特に関根さんに聞いてみたかったのは、盟友・小堺一機さんとのエピソードだ。

関根さんが芸能界デビューしたのは1974年、TBS『ぎんざNOW!』の「しろうとコメディアン道場」で初代チャンピオンとなったことがきっかけだ。

視聴者がカメラの前で持ちネタを披露して、5週連続で勝ち抜くとチャンピオンとしてプロの仲間入りを果たすという、お笑い専門のオーディション番組の草分け的な存在だった。

関根さんより2歳年下の小堺さんは、同番組の同コーナーで5週勝ち抜きをして17代目のチャンピオンになった人。『ぎんざNOW!』のレギュラーメンバーに昇格し、すでにプロとして活動していた関根さんの楽屋を訪ねた小堺さんは、先輩に対して「関根さんみたいなプロになるには、どういうことに気をつければいいですか?」とアドバイスをあおいできたという。

そのときのことは、僕もよく覚えていますよ。
小堺くんによれば、僕はそのとき「下積みがなくてプロになるのってツラいよ。だから、何事も真剣に取り組んだほうがいい」と言ったそうです。小堺くんは、いろんな人に同じようなことを聞いてまわったそうなんだけど、ほとんどの人が「ああ、頑張れよ」と適当にあしらうなか、僕だけが親身になって話してくれたっていうんです。

僕にしてみれば、当時は本当に下積みなしでプロの現場に立たされる苦労を身に沁みて感じていたころでしたから、小堺くんの顔を見たとき、素直な言葉が出てきたんでしょう。

撮影/八木虎造
撮影/八木虎造

大先輩・萩本欽一に命じられた「下積みやり直し修業」

今日、芸人を志す若者には、吉本興行ならNSC、ワタナベエンターテインメントならWCS、人力舎ならJCAという具合に芸能事務所ごとの「養成所」があって、レッスンを受けながら芸を磨いたり、相棒を見つけたりするモラトリアム期間を過ごすことができる。

だが、大学3年生のときにいきなり芸能界デビューした関根さんは、師匠に弟子入りして芸を磨く経験のないまま、テレビのプロの現場に放りこまれ、ビビリまくる日々をおくっていたのだ。

当時、関根さんと小堺さんとの人間関係は、純粋に「先輩・後輩」という間柄だったが、その関係に変化が訪れる。

そのきっかけを与えたのが、事務所の大先輩であり、偉大なコメディアンである萩本欽一さんだった。

初対面からしばらくして、小堺くんとは意気投合して、周囲の薦めもあってコンビとして活動する機会が多くなったんだけど、そんな僕たちにある日、萩本さんがこんなことを言ったんです。

「オレは浅草の舞台で修業をして、軽演劇の基礎を身につけてから(坂上)二郎さんと組んだ。だから、すぐに上に行けた。だけどキミたちは、まだ芸が完成していないうちにテレビに出ちゃった。今からでも遅くないから1回、舞台にもぐりなさい」と。

その言いつけ通り、僕らは1年間、週イチで下北沢のスーパーマーケットというライブハウスでコントを披露する、「やり直し修業」生活を始めることになりました。

「下積みなしでプロになるのってツラいよ」とアドバイスした先輩の僕が、自分と一緒に下積みのやり直しをさせられてるのを見て、小堺くんはどう思ったでしょうね?

今の人には想像できないかもしれないけど、当時の小堺くんは「お笑い界の藤井フミヤ」と言われるほどかわいくてさわやかなルックスでね。頭の回転も速く、彼の横に立つとテンポのいいしゃべりで僕のクドくてアクの強い芸風がイッキに中和されていくような気がしました。

デタラメトークでブレイクしたラジオ「コサキン」誕生秘話

こうしてふたりは1982年以降、『欽どこ』の通称でおなじみの『欽ちゃんのどこまでやるの!』(テレビ朝日系)の「クロ子とグレ子」というコンビとして活躍することになるのだが、その前年には27年半の長きに渡ってリスナーに愛され続けた人気ラジオ番組『コサキン』シリーズ(TBSラジオ)がスタートしている。

果たしてこの番組、どんなきっかけで始まったのだろうか?

実は、最初から「コサキン」の看板を掲げていたわけではないんです。
『夜はともだち 松宮一彦絶好調』というラジオ番組があって、パーソナリティーをつとめていたアナウンサーの松宮一彦くんがテレビの国民的歌謡番組『ザ・ベストテン』(TBS系)の追っかけマンに抜擢されて、空いた木曜日の穴を埋める、代打のパーソナリティーとして僕らが呼ばれたんです。

当然、リスナーは「第二の久米宏」と言われた松宮くんのファンが中心ですから、無名のコメディアンだった僕らふたりの人気が出るはずがない。

実際、リスナーから来るハガキの量は、ほかの曜日が週に200通くらい来ているのに比べて、僕らが担当する木曜日のハガキは、たったの2枚。それでも、「いや~、今週も2枚でした」ってグチりながら、2枚のハガキを5回に分けて読んだりして、その場をしのいでいたんです。

ある日、ハガキが1枚増えて、「3枚になった!」って喜んだんだけど、その日は毎週投稿してくれていた「大熊良太」くんという人が2通出してくれただけで、ハガキは実質、2枚のまま。あのときはガッカリしたなぁ。

新人のタレントとしてはノイローゼになってもおかしくない状況で、木曜日が近づいてくると気分が沈んでくる日々を送っていた関根さんは、小堺さんにある提案をする。

「メチャクチャなことをやって、あっちからクビにしてもらおう」って。

ホラ、新人の手前、自分たちから「辞めさせてください」なんて言える立場じゃないんだけど、番組のほうから辞めさせてくれれば「僕らの力が足りず、クビになっちゃいました」って、言い訳が立つでしょ?

後輩の小堺くんからしたら、だらしない先輩に見えたでしょうね。でも、幸いなことに小堺くんも僕と同じようにツラい思いをしていたようで、話にノッてくれたんです。

それで、次の週からメチャクチャやったの。
小堺くんが話の途中で何の脈絡なしに「おじさん、ガムちょうだい」って言うと、僕も負けじと「オレは不死身だぁ~~」と叫び返す。
そう、まったく意味はないんです。ただ、いつものようにふたりでふざけ合っているだけ。

そんなやりとりをするうち、関根さんは内心、ディレクターが「お前ら何やってんだ!」と怒鳴りこんでくる場面を想像していたという。だが、誰も止めに入ることはなく、ふたりはもっとふざけなきゃいけないんだと勝手に解釈して、ふざけ合いはさらにエスカレートしていった。

ところがそれをきっかけにして、ハガキが一枚、また一枚と増えていったんです。僕らのおふざけの上を行こうとするハチャメチャな内容のハガキが。

気がつけば27年半、リスナーを巻き込んでの小堺くんと僕のふざけ合いの日々が続いたわけです。

番組が終わっても、不定期でイベントを開けばいつも満員御礼。
おまけに今でもTBS Podcastに場所を移して『コサキン ポッドキャストDEワァオ!』として配信を続けているんだから、これほどリスナーに愛された番組って、珍しいんじゃないかなぁ。

撮影/八木虎造
撮影/八木虎造

萩本欽一が予言した「関根が売れるのは40歳から」の真相

ところで、小堺さんは関根さんより早く、28歳という若さでフジテレビのお昼のテレビ番組『ライオンのいただきます』の司会に大抜擢されている。後輩に追い抜かれた立場として、嫉妬を感じるようなことはなかったのだろうか?

いや、嫉妬どころか、ありがたいなとさえ思っていましたよ。
というのも、当時、テレビの世界ではB&Bやツービート、紳助・竜介、ザ・ぼんちといった漫才ブームの勢いに乗って出てきた人たちが表舞台を席巻していました。

なかでも関西勢のお笑いが、ものすごい勢いで全国区に広まっていくなか、最初から東京でくすぶっていた僕は肩身の狭い思いをしていたんです。

そんななか、仲間うちから小堺くんが先頭を切って売れてくれたおかげで、僕の迷いはイッキにふっきれました。

例えるならば、碓氷峠(うすいとうげ)のような曲がりくねった細道を歩くなか、小堺くんが走り抜けたポイントごとに、明るいテールランプを灯してくれたようなもの。あたりは濃霧がたちこめていて、視界は充分ではないんだけど、そのランプをたどっていけば上にあがっていくことができる。そのことが、どんなに頼もしかったことか。

関根さんの著書『嫌われない法則』によると、ふたりの大恩人である萩本欽一さんは、若手時代の彼らの未来を予言するようなことを言っていたという。

萩本さんいわく、「小堺はひとりでもしゃべりができるから司会向き。でも、関根はいろんな番組にゲストで出て、何か変なことをやるのが向いている。だから、関根は40歳からだな」と言われました。

確かそれが、32歳のとき。えっ、40歳って、あと8年はくすぶってなきゃならないの? って、軽いショックを受けました。どんだけ大器晩成なんだよ、って。
でも、逆にとらえてみれば、8年頑張っていけばこのまま芸能界から消されずにやっていけるんだ、とポジティブに考えることにしました。

ところが、40歳になったとき、萩本さんのもとを訪ね、「大将がおっしゃった通り、僕も40歳から質の高いお仕事にお声がけいただくようになりました」と報告すると、意外な言葉が返ってきたという。

そのとき萩本さんはひとこと、「関根は50歳から。本当は50からなの」って言うじゃありませんか。

萩本さんの見立てでは、40歳の僕はまだ、一人前には成長してなかったみたい。 だから、50歳になったときは怖くて報告にいきませんでした。だって、今度は「関根は60歳から」って言われるに違いないのでね。

ただ、僕が60歳になったとき、「関根は若いヤツらと一緒に番組に出ていても違和感ないな」と言われたときはうれしかったですね。 僕の60代というと、『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ)の「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」にレギュラー出演していたり、若手芸人とさまざまな番組で共演するようになった時期と重なります。

欽ちゃんは、そんな雑多な番組も、ちゃんと見てくれているんだと思って。

いまだ若々しく、御年71歳にして好感度の高いタレントとして大活躍している関根さんだが、盟友・小堺一機さんと、師匠である萩本欽一さんとの出会いが大きく彼の人生に影響を与えていたようだ。

撮影/八木虎造
撮影/八木虎造

※この記事は、かっこよく年を重ねたい人におくるWEBマガジン「キネヅカ」に公開された記事を加筆・修正したものです。是非、そちらの全長版もお楽しみください。

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編集者、ライター、インタビュアー

編集プロダクション方南ぐみを経て2009年にフリーに。1990年より30年間で1500を超える企業を取材。財界人、有名人、芸能人にも連載を通じて2000人強にインタビューしている。著書に『ビジネス界に脈々と伝わる先人の知恵 業界のセオリー』(徳間書店)、『人を集める技術!』(毎日新聞社)、『はじめての輪行』(洋泉社)などがある。また、出版社の依頼で賞金500万円の小説新人賞の選考事務局を起ちあげ、10年間運営した経験のもと、齋藤とみたか名義で『懸賞小説神髄』(洋泉社)を執筆。それをきっかけに、池袋コミュニティカレッジ「小説のコツ」の講師を2013~2023年の10年間つとめた。

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