やっぱりイスラエルと闘わない「イスラーム国」
「イスラーム国」は、パレスチナ人民とイスラエルとの衝突が繰り広げられる中、これに何の関心も示さずのんきにラマダーンとラマダーン明けの休暇を楽しんできた。しかし、そのような態度はファン・視聴者の間で評判がよくなかったらしく、「イスラーム国」は2021年5月20日付の週刊機関誌で、ようやく(或いは満を持して)本件についての論説を発表した。ところが、その内容たるやエルサレムやパレスチナの解放、そしてユダヤ・シオニスト、そしてアメリカとの対立を、「イスラーム国」が日ごろ繰り返している身近なシーア派・「背教者」殺しと同一視し、「どーでもいいこと」と主張するに等しい内容である。従って、今般の衝突を口実に世界各地での「単独犯」の決起を促すにしても、とてもそうとは思われない等閑なものに過ぎなかった。
「イスラーム国」の週刊機関誌の論説いわく、「人々は、我々が声明、演説、雑誌、書籍でエルサレムについて語るのを待っている。」とのことではあるが、発信の時期はパレスチナでの衝突の勃発や激化を通り越して、諸当事者が「停戦」と称する落としどころを探っている(または実際に合意にこぎつけた)後という、実に時宜を逸したものであった。また、エルサレムを「我々にとってのエルサレムは、支援する宗教であり、決済する負債であり、遅かれ早かれ成し遂げる約束である。」と位置付けてみたはいいものの、現実の行動指針としては、「ジハードこそが唯一の解決。しかし、ジハードと抵抗運動は違う。イラクでラーフィダを待ち伏せするムジャーヒドの方が、アフガン、ナイジェリア、コンゴ、モザンビークで砦に立てこもるムジャーヒドの方が、ジハード以外の方法でエルサレムを支援していると称する者たちよりもエルサレムに近い。」と主張し、自分たちはイスラエルを攻撃するつもりがないことを表明し、実際にイスラエルと戦う当事者を「道を誤った者」とこき下ろした。このような言辞は、「イスラーム国」自身がこれまでの活動歴の中でイスラエルを攻撃したことがほとんどないという事実と、現実にイスラエルと戦って「戦果」を上げている当事者への嫉妬なり疎ましさなりを表明するように思われる。
なぜ「イスラーム国」が伝統的なイスラーム過激派と異なり、パレスチナなりエルサレムを重視しない(=軽視する)かというと、同派にとってはあらゆる場所で「イスラーム統治」を実現する方が優先であり、エルサレムにこだわることは「イスラーム統治」を実践しない言い訳に過ぎないと認識されているからだ。その結果、同派から見れば「(エルサレムだけでなく)イラク、シャーム、イエメン、ホラサーン、チェチェン、そしてモスル、ラッカ、アレッポ、バーグーズもムスリムの問題であり故郷である。ラーフィダとユダヤを区別する者がエルサレムを解放することはない。ユダヤとの闘いと、ユダヤを守るアラブの暴君との闘いを区別する者がエルサレムを解放することはない。」ということになり、今や政治的には何の意味もないイラクやシリアでのシーア派殺し(=反イラン闘争)や、アフリカの僻地での「華々しい戦果」の方がよっぽど大切ということになる。今般の論説の中で、アラビア半島の専制王制諸国やトルコを非難してみたものの、その程度のことは今や自力ではたいしたことができないアル=カーイダも主張しているので、脅迫や攻撃教唆という意味では見るべきところに乏しい。
それでも、今般の論説はかつての報道官の演説を引用し、「カリフの兵士たちは、イラクでジハードを始めて以来エルサレムを忘れてはいない。」と主張した。ただし、その後に続く具体的な行動を教唆・扇動する箇所は、「しかし、パレスチナ問題を例外とはしない。あらゆる場所のムジャーヒドゥーンは、パレスチナの同胞を支援しなくてはならない。パレスチナでユダヤと戦うことができないものは、その外で戦わなくてはならない。ユダヤ、ユダヤの同盟者や友、アラブ・非アラブの暴君と戦わなくてはならない。」というどうにも歯切れの悪い内容にとどまった。
既に指摘した通り、論理的にはパレスチナ人民(或いはパレスチナのムスリム)を虐待するイスラエルやアメリカの権益は、日本を含め世界中どこにでもある。とりわけ、「イスラーム国」には「世界中のムスリムの非行を自派の戦果として取り込む」という得意技があるのだが、今般の論説を見る限り、同派はその得意技を使うつもりもなさそうだ。それどころか、「ラーフィダと戦うことこそがエルサレムにより近い」と称し、現実にはイスラエルと戦ったり、それを支援したりしている「イランとその仲間」を攻撃することに精を出すつもりのようだ。「イスラエルの敵」を「イスラーム国」が攻撃すれば、当然彼らが「イスラエルとの戦い」に費やす資源や労力が削がれることになるので、このような態度はイスラエルにとっては喜ばしいことではあれ、脅威ではないだろう。そうなると不思議なことは、「イスラーム国」が2020年1月末の報道官演説で、「新段階」と称して「ユダヤの入植地や市場を様々な兵器や化学兵器ミサイルの実験地にせよ」と扇動したことが、「イスラーム国」を観察する専門家の間でも、同派やそのファンたちの間でも、「なかったこと」になっていることだ。ここまでのところ、「イスラーム国」の思考・行動様式は「身近な異教徒・背教者を殺す」というレベルの低いものにとどまっており、同派がプロパガンダや戦果の捏造・剽窃として行った様々な行為を、国家の融解とか宗教間の分断など「歴史的一大事」であるかのごとく位置付けて観察してきたことは、同派の害悪とその被害をいかに避け、軽減・消失させるかという観察の主目的に貢献していないような気がしてならない。