「逮捕」「さん付け」「容疑者」「工業技術院元院長」…だからそれは何なのか
4月19日午後、東京都豊島区東池袋の都道で飯塚幸三・旧通産省工業技術院元院長(87)が運転する乗用車が暴走して2児が死亡する悲惨な事故は、飯塚元院長が逮捕されず、呼称も「容疑者」でないという点に違和感が噴出。元高級官僚という「上級国民」ゆえの目こぼしではないかとの指摘もなされています。報道各社がおのおのの指針に基づいた措置なのは明らかですが不可解との疑念は払拭されていません。
いったいなぜそうなったのか。メディアの敬称・呼称の基準とは何か。工業技術院長という肩書きはどれほどなのかなどキーワードを探ってみました。
どうして逮捕されないのか
「死亡交通事故発生。はねたと思われる車の男性運転手もケガを負って病院に搬送された。警察は男性の回復を待って任意で事情を聞く予定」。
ネットなどの反響をみると「べつによくある話じゃないか」と筆者が思うのは事件事故取材経験者の常識に過ぎないと勉強になりました。
確かに今回にような2人死亡8人(後に10人へ変更)重軽傷という重大事故だととりわけ、警察が駆け付けて運転手が事故を認めても現行犯逮捕(自動車運転処罰法違反容疑)されるのがふつうです。ひき逃げのような場合だと逮捕状を取るでしょうが。
ただ逮捕の条件は「逃亡か証拠隠滅の恐れがある場合」です。交通事故は捜査員がすばやく駆けつければ現場の様子がほぼすべてそろっているから「証拠隠滅」の心配はもともと小さい。では何で逮捕かというと「逃亡」を不安視するからです。「よくある話」と思ったゆえんです。
池袋の事件では警察が現着した時点で男性が救急搬送待ちで、その後入院しました。被疑者とはいえ(警察では罪を犯した可能性のある者は全部被疑者)死ぬかもしれない状態の者を身柄拘束できようもなく、かつ入院先が明白なため「逃亡」のおそれなしと判断したもようです。したがって逮捕に至っていません。
むろん捜査を打ち切ったわけでもありません。男性の自宅は自動車運転処罰法違反容疑で家宅捜索されましたし(薬物などの可能性を見越してと想像されます)証拠も押収して調べています。
男性は5月18日に退院し、同日、警視庁が任意で事情聴取。なぜこの時に逮捕しなかったのかというと、これまでの調べで事故を引き起こした自体は認めているので在宅のまま起訴できると判断した可能性大。87歳と高齢で退院したとはいえ杖に頼って歩いているありさまですから逮捕して48時間以内で送検するより任意の方がむしろ確実と踏んだのかも。この時点で男性の容姿や実名が全国津々浦々まで広まっているので逃亡できそうにもありませんし。
「逮捕=有罪」は大間違い
では反発がおきたのはなぜでしょうか。後述する「上級国民」批判に加えて、かなりの人が「逮捕=有罪」という図式でさまざまな事件をとらえているからかもしれません。状況からみて男性の「有罪」は明らかなのにどうして前段階の逮捕がなされないかと。
刑事司法の鉄則は「無罪の推定」ですので、そもそも「逮捕=有罪」ではありません。ならば批判する者が推定無罪すら知らない愚か者かというと決してそうといえない事情が厳然と存在します。公安事案で指摘される微罪逮捕や、本件を立証する措置としての別件逮捕がまかり通っているというのもその1つでしょうか。
なぜ「容疑者」と呼ばないのか
理由は簡単。マスコミ用語の「容疑者」は「逮捕されて起訴されるまでの者」と決まっているからです。したがって逮捕されなければ用いません。実名も原則伏せます。
マスコミは長い間「逮捕されてから刑期満了まで」呼び捨てていました。80年代後半頃から「無罪の推定」のはずなのに刑が確定してもいない人物を呼び捨てて「真犯人はこの者で間違いない」との印象を視聴者や読者に与えるのは人権を重んじる立場としていかがなものかという議論が高まります。結果、実名の後ろへ「容疑者」「被告」(起訴後裁判確定まで)の呼称を用い始めたのです。
当初、伝え手側に「容疑者」をつけるのは違和感がありました。単に慣れていなかっただけかもしれませんし現に今は当たり前のように使っています。もっとも「ただの付け足し」で本当に人権へ配慮したといえるのか疑問が払拭できません。逮捕という捜査機関の価値観に寄り添っているわけですし犯罪者だとの印象を与える点で呼び捨てと変わらないとも解釈可能です。
発生当初、匿名を用いたメディアはおそらく逮捕されていないからでしょう。しかしその理由が入院であり、事故の重大性に鑑みて実名へと切り替えたと思われます。
変幻自在の「さん」付け効果
「さん」はそもそもは価値中立の敬称ですが実はいろいろなケースで用います。例えば芸能人やスポーツ選手の本業を紹介する時は呼び捨てています。一方で本業を離れて善行(人助けや寄附など)を施したら「さん」付け。逆に不始末をしでかしても「さん」づけを多く使用するのです。代わりになる適切な肩書きが見当たらない場合も。
03年11月米捜査当局は歌手のマイケル・ジャクソンに児童性的虐待の容疑で逮捕状を出したと発表しました。翌日に保安官事務所に出頭して逮捕されましたが、約45分後に300万ドルの保釈金で釈放されたのです。日本のマスコミは逮捕状を出したとの発表から逮捕までは「マイケル・ジャクソンさん」果ては「マイケルさん」なる珍妙な呼び名まで主にテレビで登場。確かに「マイケル・ジャクソン歌手」は変です。
池袋の事故では当初「旧通産省工業技術院元院長」という肩書きがわからず、逮捕されなかったので「容疑者」も使えず、といって報じるべき重大事故の疑いも濃かったから昔々の「元院長」でかわしたのでしょう。飯塚元院長は今では「無職」。これを肩書きで用いると、言葉が持つ否定的意味合いを懸念しなければいけなくなります。
「元死刑囚」「元被告」「組員」なども
日本では第三者を呼び捨てにするのは稀で、主に「さん」「君」付けや「社長」「理事長」「先輩」などの肩書きで表記します。そこを踏襲した手法で他に「社長」「議員」などさまざま。刑事事件では「容疑者」「被告」以外にも服役している「受刑者」や死刑確定後の「死刑囚」。執行されると「元死刑囚」です。反対にぬれぎぬとみなされ再審を裁判所が決めても検察が抗告してまだ始まらない時点では「元被告」などと呼称するケースも。
反社会的集団の構成員だと「さん」付けがためらわれ「暴力団の○○組長」「過激派の○○メンバー」などとする書きぶりがみられます。組員が殺された(純然たる被害者)という事件では「さん」付けが本則ながら、もともと反社なので敬称は避け実名を報じるにしても呼称は「組員」でしょう。
飯塚元院長は起訴されたら「被告」と呼称が変わるはずです。なお在宅起訴だから逮捕された事案より軽くなるとは限りません。交通事故でも軽度だといったん逮捕されても釈放され、検察に送られても不起訴処分か略式手続き(簡易裁判所マター)が多いのですけど今回の事故は運転者が病院送りになったから逮捕しなかった「だけ」でこのパターンには当てはまらないのです。
「上級国民」だから目こぼしされたのか
違うと思われます。そもそも発生モノで運転手が病院搬送され、身柄を確認できるもの(自動車免許証など)をみても元職がすぐわかるとは限りません。前科があれば警察庁の犯歴管理システムで判明するかもしれませんが今回はなし。
死亡交通事故を起こしても逮捕に至らないケースとして飯塚元院長のような「けが」以外に次のような流れがあります。まず道路交通法が定める報告義務を果たし、警察が現認時点で過失の甚大性が低いと見なし、なおかつ逃亡の恐れなしとすれば身柄拘束されない……。
逮捕されなければ上記の習いでメディアは実名報道を避けます。これは「一般国民」も同じ。むしろ「上級国民」の方がマスコミが飛びつくでしょう。死亡交通事故となれば記者発表される可能性が高いのですが、軽傷ぐらいだと報道側が聞き出さないとわからない事故は多々あります。有名人や公務員の関わった事件事故はバリューが大きいため常にさらっているのです。結果「一般国民」では報じられない事件事故でも「上級国民」ゆえに知れ渡ってしまう場合も枚挙にいとまがありません。
他方「上級国民」ゆえに知名度が高いと逃亡の恐れが相対的に下がるので逮捕されないという判断もあり得ます。ただ高級官僚とて世間一般に顔が知られている者は稀なので当てはまりそうにありません。
霞ヶ関的な「本物の上級」とは
キャリアといっても飯塚元院長は技官。通産省で事務方トップの事務次官は法文系が占めています。本省でのキャリアはさほど長くなく部長以上を外局で過ごしていたでしょう。本省からながめたら子会社のようなものです。
工業技術院は当時は通産省の外局(総務省における消防庁、文部科学省における文化庁の位置)で院長は外局トップだから省内序列は一応2位ですが本省大臣官房官房長や内局局長と事実上同列。しかも高位のポストは約2年ごとと短いサイクルで替わっていきます。
国家行政組織法に付された別表から建制順をたぐると中央省庁再編前の通産省は総理府を除く12省中8位に過ぎないのです。
こうした序列が組織や人の普遍的価値を示すものではもちろんありません。ただ「人事が万事」の霞ヶ関の掟では重要。その感覚だと「すごく上級」とまではいいがたいのです。
官尊民卑の風潮から推せば旧勲二等も授かっているので「上級」かもしれませんけど目をむくほどか? 例えば男性アイドルグループ「嵐」の櫻井翔さんの父がかつて就いた総務省事務次官は建制順1位の1位。霞ヶ関の論理ではそれこそはるか上級と位置づけましょう。
死亡交通事故が激減したからこそ
以上のように筆者は「上級国民ゆえ逮捕を免れた」説には否定的です。とはいえ鋭い指摘であったとも思っています。
何よりもそうした視点が存在するというのが興味深い。退職者を含む高官や、刑事司法に関わる警察幹部、検察官など、国会議員などが特別扱いされていないかと疑うのは健全です。あってはならないから。ただ「親の因果が子に報い」とばかりに親族まで暴き立てようという兆候はいただけません。
1992年、東京佐川急便事件のヤミ献金問題で、自民党の実力者として権勢を振るっていた金丸信衆議院議員を追っていた東京地検特捜部は逮捕はおろか事情聴取すらせず政治資金規正法違反容疑で略式起訴、罰金20万円の略式命令でことを収めようとして国民の猛反発を受けました。事態を重くみた地検は結果的に別の容疑で逮捕・起訴にこぎつけています。
罪のあるなしや軽重は裁判所が決めるのですから今回の事故も「逮捕されなかった」だけでなく検察が在宅でも起訴するか否かや、略式で済ますかどうか、判決は?というところまで見極めたいところです。
高齢者の運転のあり方にも一石を投じた出来事でした。90年代から今世紀にかけて1万人前後で推移していた交通事故死者数は激減して今や3000人台。その分だけ注視されるようになったともいえるのです。
大事故を起こす主因であり、れっきとした罪でありながら寛容に扱われていた飲酒運転が1999年の東名高速飲酒運転事故(2児死亡)や2006年の福岡県東区飲酒運転事故(3児死亡)といった悲惨な出来事で法改正もなされ、現在では「とんでもない」との認識が広く共有されつつあり、死亡事故減少の大きな理由にもなっています。
飲酒と異なり高齢者運転は違法でなく、異なる状況(生活条件や個人差)を無視して一律禁止には課題も山積。それでもせっかく真っ当に生きてきて晩節を汚すだけでなく次世代や次々世代の命を奪う行為の原因であるならば見逃せません。殺人だろうと過失運転致死だろうと遺族にとって加害者は「人殺し」です。