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【大河ドラマ鎌倉殿の13人】鎌倉に逃亡した殺人犯を幕府首脳部はどのように裁くのか?

濱田浩一郎歴史家・作家

少年の頃から源頼朝に気に入られていた北条泰時。建久6年(1195)8月15日、泰時12歳の時には、鶴岡八幡宮で行われた流鏑馬の射手16人のうちの1人に選抜されています。『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に編纂された歴史書)に「十五番 江間太郎」とあるのが、泰時のことです。

泰時の父・北条義時は「江間」(静岡県伊豆の国市)を領したことから江間四郎を称し「江間殿」などと呼ばれていした。よって、泰時は義時の長男ということで「江間太郎」と呼ばれたのでしょう。

さて、伊豆の流人から鎌倉幕府の将軍へと大出世した頼朝でしたが、建久10年(1199)1月に病死します。頼朝の後継となったのは、嫡男の源頼家でした。しかし、頼家は未だ18歳と若年。幕府の有力御家人13人が頼家をバックアップすることになりました。その中には、泰時の祖父・北条時政、父・義時の名もありました。が、頼家は若く直情径行なところもあって、あくまで『吾妻鏡』によると、他人(安達景盛)の愛妾を奪うといった「暗君」として描かれています。

それとは対照的に、同書において、泰時は若い頃から道理を弁えた素晴らしい人物との描写がされているのです。例えば、正治2年(1200)3月29日に次のような出来事が都で起こります。事の発端は、前若狭守・藤原保季が、吉田親清(中原親能の郎等)の妻を犯したことにありました。

怒った親清は、保季を追いかけて、保季を刀で斬り殺してしまいます。その後、親清は馬で逃亡、鎌倉に逃れてくるのです。しかし、殺された保季の父・藤原定長は、息子を殺された恨みから、親清の処罰を求めてきます。この問題に鎌倉の首脳部はどのような決断を下すのでしょうか。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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