日本の最高気温の記録は46.3℃である
8月も今日で最後。今年(2020年)も最高気温が40℃を超える地点が続出し、8月17日には静岡県浜松で41.1℃の最高気温を記録しました。これは2018年に埼玉県熊谷で観測した41.1℃と並び、日本歴代最高気温のタイ記録です。
しかしながら、この暑さをはるかに超える温度が実は今から97年前の9月2日に東京で観測されているのです。
1923年9月2日、何があったのか
気温というのは気象官署で測ったものしか正式には認められません。1923年当時、気象庁の前身である中央気象台は、麹町区元衛町(現在の竹橋付近)にありました。その正式な気象官署である中央気象台の温度計が、9月2日の未明に46.3℃の値を示したのです。
もうお分かりだと思いますが、前日の9月1日の正午前、関東地方一帯に強い揺れを感じる大きな地震がありました。関東大震災です。
このときの気圧配置は、8月30~31日に九州に上陸した台風が瀬戸内海から日本海へ抜けたあと、本州に再上陸。勢力を落としながら本州を横断していました。(参照「関東大震災の迫りくる炎の中で気象観測」饒村曜氏2015,9,1)
当初、東京ではこの台風に向かって南風が吹いていましたが、台風の通過にともない北風に変わりました。これが、地震直後におきた火災の範囲を広げることとなったのです。夜中まで大火災は続き、日をまたいで、9月2日の未明には中央気象台付近も火の海となりました。しかし、身に危険が迫る中、観測を続行した人物がいました。当時の中央気象台職員、三浦榮五郎です。当時の三浦の心境が気象百年史に記されています。
最も恐れたるは観測の中絶と記録の焼失にあり
「~吾人の最も恐れたるは建物の焼失にあらず,将又(はたまた),大金を以て購ひたる器具,機械にもあらず。実に観測の中絶と記録の焼失にあり。~中略~ 建物は灰となり煙となりて消え失せしも其観測の結果は永遠に之れを残す得たるはせめての幸なりとする所なり。~」(気象百年史 資料編より)
最も恐れたことは、建物や高価な観測器具の焼失ではない。観測が途絶えることと、記録が失われることだと書かれています。三浦を含む観測員達は、猛火に包まれ、風速15m/s以上もの熱風が吹く中、観測原簿を抱えて火の粉のかからない場所へと運びだし、延焼を免れた風力塔で観測を続けました。その結果、気象台本館は焼け落ちてしまいましたが、観測記録は途絶えることなく残ったのです。
観測された日本記録
このときの異常な高温について、その後の様々な文献では最高気温は45.2℃とするものや、46.4℃だったとするものも伝承されています。いったいどれが正しいのでしょう。
実はそれぞれに理由があって、45.2℃は毎正時の観測(上グラフ参照)、46.4℃はのちの中央気象台長藤原咲平が調査報告に書いたもの。そして、46.3℃は観測原簿と中央気象台月報に記されたもの(上表参照)です。当時の温度計は水銀柱で測るもので、水銀柱が最高値を示した痕跡から最高気温を推定するものでした。したがって、いくつかの説があるとはいえ、やはり一番信頼度が高いのは月報に書かれている46.3℃と考えるのが妥当だと私は考えています。
とはいえ、これらの数値は震災の火災によるものなので、公式記録からは消され、現代ではこうした事実があったこと自体忘れ去られようとしています。
当時、火災の影響が少なかった品川や小石川駕籠町(現在の巣鴨)で観測された震災当日の最高気温は30℃前後、夜中の気温も25℃くらいでした。もし、火災が起きなければ、中央気象台でもそのくらいの気温だったと考えられます。
尋常ではない時の46.3℃を正式な観測記録とするには無理がありますが、暑さの日本記録は関東大震災時の46.3℃で、それを火の海の中で命をかけて測っていた人がいたことは紛れもない事実なのです。三浦榮五郎らが「永遠に之れを残す得たる」として観測した値を、我々は忘れてはいけないと思います。
参考
関東大震災調査報告(気象篇) 藤原咲平著 大正13年
中央氣象臺月報 : 全國氣象表. 大正12年9月
気象百年史(資料編)
関東大震災と東京空襲の火災に伴う中央気象台の高温と強風 藤部文昭著 2018年5月