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【富田林市】河南町役場のすぐ近く!富田林最東端に位置する南別井地域には、何があるのでしょうか

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

富田林市の東側といえば、南のほうには佐備・甘南備とありますが、少し北側に行くと河南町との境が複雑になっていることもあり、正直地図を見ないとどこがもっとも東側に当たるのかわかりません。

こちらは富田林市の地図です。東側を見ると北の太子町のあたりと、中ほどの河南町のあたりに、東側に張り出している地域があります。ちなみに太子町のあたりは羽曳野市と境を接していて、羽曳野側にも同じ名前の地名がある通法寺町です。

どちらも東に張り出しているので、どっちのほうがより東なのか測ってみると、北側の通法寺の東端に黒い線を南北に引くと、中ほどの出ているところは少し東に張り出しているのがわかります。つまりこの位置、別井が富田林最東の地域となります。

ということで、富田林の最東端の別井地域に、今話題の金剛バスに乗って行ってみることにしました。上の地図でより詳しく見ると、南側の河南町役場のあたりが最も張り出しているようですので、河南町役場前で下車します。

河南町役場前にある案内図です。現在の行政上では同じ富田林市別井ですが、河南町役場の北側を東西につながっている道を境にして北別井地域と南別井地域に分かれているようです。今回はより東に張り出している南別井地域を歩いてみることにしました。

河南町役場です。トイレを借用しました。ありがとうございます。助かりました。

隣の自治体の役場前から徒歩圏内に市と町の境界線があるというのは不思議ですが、地図上ではそうなっています。さて富田林市に向かって歩いてみましょう。

河南町役場から歩いて2・3分の地点です。この交差点から先が富田林市です。驚くほど市と町の境が近いんですね。余談ですが、この画像の左側にある新聞社の専売所があるのですが、住所は河南町なのに「富田林東専売所」という名前がついています。

市と町の境を越えました。富田林側から河南町役場を見ます。さて中心付近に小さな水路が横切っていますが、あそこが市と町の境目のようです。

富田林市内に入っていきなり見つけました。市内で最も東にある無料販売所ですね。

また、とっぴーの顔が書かれた消火栓のマンホールがあります。

明らかに「とんだばやし」と書かれたマンホールがあることから、ここが富田林市内であることがわかります。

この辺りは、田んぼとビニールハウスが多数並んでいます。河南町との境目付近はのどかですね。

少し歩くと南別井と書いてあります。この別井の呼び方ですが、バス停の名前では「べっつい」と呼んでいましたが、郵便番号などを調べる地名の呼び方では「べつい」(外部リンク)と書いてありました。

現在の地名では、別井3丁目に当たるそうです。

しばらく歩くと地蔵堂がありました。その隣の小さな堂には「さん」と書いてありましたが、鈴が邪魔をして見えませんでした。

その隣にまた大きな堂があります、上の扁額を見ると次のように書いてありました。

   蔵王権現
行者 神變大菩薩
   不動明王 

神變大菩薩というのを初めて知ったので調べると、これは神変大菩薩というそうで、修験道の祖・役小角(行者)のことです。没後1000年以上たった1799(寛政2)年に当時の光格天皇から送られた諡号( しごう:貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名)とのこと。

さらに歩くと、石の灯篭が三つ並んでいました。ただし柵に囲まれています。

南別井地域を北方向に歩いていきますが、途中で地図上で見つけたふたつのスポットを回ってみましょう。

まずは、左(西方向)に歩いていきます。

こちらは極楽寺という名前の寺院です。

正式には不遠山宝積院極楽寺で、浄土宗の仏教寺院です。

門が開いていたので少しだけお邪魔しました。

本尊は阿弥陀如来を祀っているそうです。見えているのは本堂ですが、このほかに庫裏があるとのこと。

さて今度は右側(東側)にあるスポットを歩いてみましょう。

東方向に行き止まりになっているところに古い建物があります。

歴史を感じる建物ですね。上のほうに家紋らしきものが見えます。

先程の建物を左に曲がっていくとこのような場所に出てきました。

旧別井神社跡とあります。別井神社がいつまでこの場所にあったのか調べてみましたが、情報がありません。ただ他の近隣地域の情報から、おそらく明治時代に地域にある多くの小さな神社がひとつにまとめられた際に合祀されたものと推測されます。

神社跡近くにあるのは南別井遊園
神社跡近くにあるのは南別井遊園

現在北別井・南別井というふたつの地区のだんじりがありますが、それらは現在千早赤阪村の建水分神社に宮入りをするそうです。おそらく別井神社の御霊が建水分神社に合祀されたということでそうなっていると考えられ、それ以前はここに宮入りしていたのでしょう。

その別井神社跡のすぐ隣にあるのが慈眼寺。宝塔山という山号で黄檗宗の仏教寺院です。

不許葷酒入山門とあります。つまり酒を呑むとかオリエンタルベジタリアンとおなじ五葷(くん)を禁止しているので、これを飲み食いしているのなら、この先に入ることを許さないと書いてあるんですね。

門は開いていましたが土嚢が多く置いてありました。この時の私は酒も飲んでいませんし、この日はまだ食事をしていないので入っても問題ないでしょう。

門をくぐって中に入ると、他の寺院のように寺院の境内とその外を遮る壁などはなく、開放的な中に寺院があります。

慈眼寺の説明があります、引用しましょう。

慈眼寺
宝塔山慈眼寺は、禅寺で宇治黄ばく山萬福寺の末寺です。寺紋は菊水です。御本尊の梅の木観世音は聖観音菩薩さまで聖徳太子御作と伝えられています。境内の古井戸は弘仁の年(810~824)に悪い病がはやったときに、弘法大使が掘られたとされています。宝塔を建てまたその清水を病人に与えられると病気がたちまち治ったと言い伝えられています。江戸時代の河内名所図会に書かれている「大師の井」がこれです。地名の「別井」山号の「宝塔山」の呼び名はそこからきたものです。今は昔、河内第七番礼所の観音様として、又石川第十二番礼所の観音様として信仰されていました。
頼もしな はこぶ歩みは 南なる 別井の水の 深き御仏

別の情報では元々真言宗寺院で観音堂と称し、四天王寺念仏院の分院とのこと。江戸時代中期に四天王寺の僧「空厳」が別井の観音堂に来住し、慈眼寺という名前を付けたとあります。また寺宝として楠木正成自筆とされる「軍壇目鏡一巻」があるそうです。

かつて隣には別井神社があったというこの辺りが別井地区の中心ですね。ちなみに別井の地名の由来になったという古井戸は見つけられませんでした。情報ではすでに埋められてしまったとのこと。

現在もすぐ近くに、南別井のだんじり小屋と画像のコミュニティセンター南別井町老人憩いの家があります。

という事で、南別井地区を散策しました。富田林最東端にある集落からは画像のように河南町役場が見えるような位置にあるということ。田んぼが多いために空が広くて開放的で、また歴史のある寺が存在しているので、歴史と自然の散策にはぴったりです。

富田林で最も東にある南別井地域
住所:大阪府富田林市別井3丁目、5丁目
アクセス:富田林駅からバス河南町役場前から徒歩5分

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奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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