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【富田林市】源頼朝の先祖の墓、河内源氏発祥の地があるのを御存知ですか?富田林市通法寺町の謎もここに

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

富田林市内の地図を見ると、非常に気になる地名を見つけました。それは、市の北東に位置する通法寺町です。

こちらの地図で白っぽく反転しているのが通法寺町です。石川の東で、支流のさらに東にある場所。

これだけでは、いったい何のことなのかよくわからないと思います。ということで手を加えました。したの図を見てください。

このように、富田林側の通法寺町とは別にすぐ北側の羽曳野側にも通法寺という地名があります。さらに羽曳野市側には、明治維新まで存在した「通法寺跡」と呼ばれる史跡があります。

市境を隔てて同じ名前の地名があるので、大変気になり調べると、次々と興味深いことがわかってきました。

富田林市通法寺はかつて石川郡喜志村の一部だったところで、羽曳野市通法寺は古市郡通法寺村だったのです。ここで要点をまとめました。

  1. 江戸時代石川郡喜志村は幕府領(一部寺社の領地を含む、現:通法寺町は通法寺領?)
  2. 江戸時代古市郡通法寺村は寺社領(通法寺の領地?)
  3. 石川郡喜志村は明治以降も合併がなく喜志村のまま存在し、1942(昭和17)年周囲と合併して富田林町、その8年後に富田林市となった。
  4. 古市郡通法寺村は、1889(明治22)年に周辺の村と合併して古市郡駒ヶ谷村となり、さらに1956(昭和31)年に周辺の町と合併し南大阪町、その3年後に羽曳野市になった。

ということがわかりました。つまり富田林市の通法寺町と羽曳野市の通法寺は、江戸時代まで存在していた通法寺がかつて持っていた領地ではないかと推測したのです。

また通法寺という寺が明治維新まで存在していたこと、この寺が今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で登場する主要人物との関係が深いことも知りました。そこで、さっそくその場所に行ってみることにしました。

本当はバスで近くまで行けるのですが、あえて行きは、近鉄長野線喜志駅から歩いて移動しました。

いったん太子町に入ります。通法寺町は飛び地ではないので、富田林市内だけ通っても行けますが、石川を合流点まで下る必要があるなど遠回りなので、このルートにしました。最寄りのバス停も太子町の町内にあります。

バスで行くときは喜志駅から金剛バスに乗り、太子四つ辻バス停で降りてください。この交差点から北方向に歩くと、再び富田林市内に入り、通法寺町の交差点に行けます。

こちらが富田林市通法寺町の交差点です。この辺りは交通量が多いので注意しましょう。

残念ながら富田林市内の通法寺町にあるのは、工場と畑と住宅だけです。

それでもしっかり富田林市と書いてありますね。この道の東側は太子町と、市の境目でもあるわけです。

縄張り争いというわけでもないのですけれど、太子町側の電柱には、このような町の広告が張り付いているので、境界線が分かりやすいですね。

ところが下を見ると羽曳野市。市の境界線付近はいろいろ不思議なことが多いですね。

ついに3つの自治体の境界線まで来ました。この道の正面が羽曳野市、右(東側)が太子町、今撮影している場所は富田林市です。言ってみればゴールデントライアングルのようなところ。

そして富田林市との境界線を示す看板がありました。ここから羽曳野市に入り、少し歩くと通法寺跡に到着。

河内源氏とゆかりのある通法寺は、明治元年に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により廃寺となりました。その結果、画像の門と鐘楼だけが残りました。

その後1957(昭和32)年に、通法寺跡といくつかの墓が河内源氏のふるさとであり、その後の発展を示すものとして、文化財保護法の定める史跡「通法寺跡」に指定されました。

ここに詳しい説明があります。平安時代の中期から後期の頃に河内国石川郡壺井を本拠地とした源頼信(みなもとのよりのぶ)より、三代が拠点にしたところ。

頼信は実力者の藤原道長などに仕えて力を蓄え、関東を拠点にしていた坂東武士たちと主従関係を結んだそうです。

こちらにわかりやすい系図があります。今年の大河ドラマで登場している源頼朝は河内源氏の出身。その河内源氏は、初代頼信(よりのぶ)、二代頼義(よりよし)、三代義家(よしいえ)の三代の墓がここにあるわけです。

わかりやすく手を加えてみました。

通法寺跡です。寺が残っていればと思うのですが、明治政府の方針で無くなってしまいました。今は礎石だけが残っています。

これは廃寺以降も残ったとされる鐘楼のようですね。

源頼義の墓
源頼義の墓

寺の境内には二代目の源頼義の墓があります。前九年の役で東北の安部氏と戦った人物です。

通法寺跡の見どころはこの辺りで終わりですが、周辺には徒歩圏内にスポットがあるので、ついでに行ってみました。

壷井八幡宮手前にある清泉壷井(せいせんつぼい:壷井水)です。伝承では頼義と頼家の親子が前九年の役で東北に戦いに行ったとき、飲み水に困り、いったん戦いに敗れます。

そこで頼義が鎧(よろい)を脱いで祈念(きねん)して岸壁に向けて弓矢を射ると、そこから水が湧き出たので、飲み水が確保でき戦いに勝利したとか。

この飲み水を壺に入れて、河内に持ち帰り、この場所に井戸を掘って壺を埋めたとされます。

こちらが壷井八幡宮(つぼいはちまんぐう)で、河内源氏の氏神が祀られています。

神社の中には三代目の義家(八幡太郎義家)が愛用した、重要文化財の黒韋威胴丸(くろかわおどしどうまる)や重要美術品の天光丸の太刀が収蔵されているとのこと。

壷井八幡宮の鳥居を造営してそれを献上したのが富田林市甲田の石材店というのも、八幡宮と何らかの関係ありそうな気がしますね。

壷井八幡宮からいったん通法寺跡にもどり、そのまま進むと小高い丘があります。

源義家の墓
源義家の墓

小高い丘を登ると、三代義家の墓や初代頼信の墓があります。

河内源氏の子孫ですが、義家の子、四代義忠(よしただ)までは河内の領主でした。しかし、義忠が暗殺されるなどの悲劇が起こり、やがて河内源氏の勢力が弱体化。都から東国(とうごく:関東地方)に落ち延びます。

東国に落ち延びた河内源氏の子孫である頼朝が東国で力を持ち、やがて鎌倉幕府を開くことになるわけですが、その他にも足利尊氏、新田義貞、武田信玄(河内源氏分家甲斐源氏)、徳川家康(新田氏の分家)も先祖を遡ればこの河内源氏にたどり着きます。

河内源氏が武家の棟梁(とうりょう)と言われる理由ですが、そう考えると、ここは主要な武将の共通の先祖ということになり、実は本当にすごい場所だといえます。

現在大河ドラマでは源頼朝が登場して活躍していますが、その先祖ゆかりの寺「通法寺」の地名が富田林に残っています。

そのすぐ近くにある河内源氏の遺跡群とともに、せっかくの機会なので巡ってみてはいかがでしょうか?

富田林市通法寺町と通法寺跡及び周辺史跡群
アクセス:近鉄喜志駅からバス 太子四つ辻バス停から徒歩圏内

奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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