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シリア:確信犯的羊殺し

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
アラブの羊肉料理。(筆者撮影)

シリア人民の大半が羊肉や牛肉を食べられなくなってから久しいようだが、これまでも指摘した通りその原因は紛争被害、諸般の制裁、中国発の新型コロナウイルスの蔓延などによる経済と人民の生活水準の悪化にある。そうした中、シリア・アラブ通信社(SANA)は、羊の飼育の現場での生産妨害行動による被害が広がっていると報じた。それによると、「バーディヤ」と呼ばれるシリアの中でも砂漠地帯にあたるハマ、ホムス、ラッカ、ダイル・ザウル県にまたがる地域は「イスラーム国」の残党による燃料輸送車列の襲撃、畜産従事者や家畜への襲撃が相次いでいる。特に、最近はハマ県東部の地域で400頭もの羊が奪われたり、殺されたりする被害が出た。「イスラーム国」の者たちは、強奪しきれない羊を殺して去ったとのことだが、イスラーム教徒(ムスリム)は定められた形式に則って食肉処理した肉しか食べられないので、それ以外の方法で殺した家畜や動物の死肉は食べない。となると、飼っている羊が射殺されたり、遺棄されていた地雷や不発弾の爆発で死んでしまったりすると、それだけでとんでもない被害が生じることになる。この報道によると、現在のシリアでは羊1頭の価格がおよそ110万シリア・ポンドなので、400頭もの羊が失われた損害は4億5000万シリア・ポンドに達するそうだ。また、牧畜民や羊が襲われることにより、牧畜に従事する者たちが羊を牧草地に連れて行くことができなくなるので、今後の生産にも重大な被害が出る見通しである。

 このように、シリア紛争やそれに伴って生じた様々な事情により、牧畜分野でも甚大な被害が出ていることが示された。今般の報道で取り上げられたハマ県の東部だけでも、紛争前にはおよそ200万頭の羊が飼育されていたところ、より安全な地域へ避難した人や羊が多かったため、飼育数は現在で60万~80万頭程度に減少したそうだ。

 この報道は、人民に適切な価格で十分な量の食肉を提供できないシリア政府が、責任を「イスラーム国」に転嫁して言い逃れを図っているもののようにも見える。その一方で、農畜産物の生産は短期間に大幅に増やすことが難しいので、たとえ「独裁政権」の打倒やシリアに対する経済制裁の解除、「イスラーム国」などの犯罪集団の殲滅が実現したとしても、羊の飼育頭数はすぐには回復しないということは紛れもない事実であろう。しかも、シリアの砂漠地帯での羊の飼育というと、遊牧民のような人々が気まぐれかつ粗放的に営んでいるとの印象が抱かれるかもしれないが、実態はそうではない。シリアの砂漠地帯での牧羊は、それこそ部族民が羊やラクダの群れを連れて移動生活を送っていたころから、家畜を飼育する部族民と、彼らに必要な資金を出資したり産品を買い取ったりする都市の出資者との契約に基づく事業として営まれていたものである。何かの理由(今回は生活水準の低下)によって消費者が羊の肉を買わなくなると、羊の飼育・羊肉の供給を事業として営むことは難しくなる。つまり、羊を飼う側、そのためのお金を出す側、羊の肉を消費する側の全ての状況がバランスよく回復しない限り、シリア人民に羊の肉が潤沢に供給される日は来ない、ということだ。シリアにおける「羊殺し」には短絡的な略奪や殺生という意味をはるかに超える、長期的な影響を及ぼす行為であり、「羊殺し」をする者たちにも長期的な悪意が感じられる。

 しかも、羊には羊の繁殖や成長のペースというものがあり、羊を飼う側もそれを無視して飼育頭数を増やすことはできない。例えば、干ばつにより餌となる牧草が少ない時は、羊を飼う者たちは飼育頭数を絞って干ばつを乗り切ろうとするので、羊肉の供給量が増えて価格は下がる。一方、降水量が潤沢で牧草が豊富な年は、羊を飼う者たちが飼育頭数を増やそうとして出荷する数を減らすので、羊肉の価格が上がる、ということが起こる。従って、紛争からの復旧・復興の中で飼育頭数を回復させようとすると、その間羊肉の供給は減り、価格はさらに上昇するということも十分予想される。

 既に知られているとおり、シリア紛争では過去数十年分の社会資本や生産設備が破壊され、これを回復させるまでには何世代もかかるとみられている。農畜産分野はその中でも特に回復のための時間や手間がかかると思われるため、シリア人民の生活水準、特に食糧事情の改善にはひときわ神経を使わなくてはならないだろう。それ故、シリア紛争についても独裁者やその仲間をなじったり、殲滅したりして留飲を下げるとか、「カワイソー」なシリア人に一時的な施しをして満足する、といった類とは別次元で、長期的に関心を持ち、関与することが不可欠なのである。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会、『シリア紛争と民兵』晃洋書房など。

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