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シリア:人民の食卓からとり肉と卵も消える

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
中東のとり肉料理(筆者撮影)

 シリア紛争やアメリカをはじめとする各国からの経済制裁により、シリア人民の生活水準は既に著しく低下している。紛争勃発前は1ドル=50シリア・ポンド(SP)だったシリアの通貨の価値は、2020年5月の時点で1ドル=700SP、アメリカが「シーザー法」に基づく経済制裁を実施するようになった段階で1ドル=3000SPに暴落した。現在は1ドル=2000SP程度で推移しているようだが、通貨の暴落により人民の生活水準がさらに低下したことは間違いない。そうした中、既に牛肉や羊肉を買うことができなくなっていたシリア人民に、とり肉と卵の値上がりというさらなる苦難が生じた。

 2020年8月29日付『シャルク・ル・アウサト』(サウジ資本の汎アラブ紙)によると、5月の時点で卵1ケース(30個)が1300SPだったものが8月には1ケース4400SPに高騰、とり肉1kgも同様に2000SPから7000SPに値上がりした。ちなみに、この報道によると公務員の平均の給与が約5万SPのところ、羊の肉は1kg2万3000SP、牛肉は1kg1万4000SPだそうだ。シリアの貧困率は85%に上ると考えられているが、これは筆者らがシリア国内で実施した各種世論調査(2016年2017年2018年)でも実証されている。ただし、紛争期間中に避難生活を経験していない者の生活水準には若干回復が見られたものの、国内避難民の生活水準は依然として著しく低いままだった。つまり、今般のような通貨の下落や物価の高騰が起きれば、国内避難民の方がより打撃を受けると言える。

 とり肉や卵の値上がりは、ダマスカス市とその周辺地域にそれらを供給していたシリア南部(クナイトラ県やダラア県)での生産が著しく低下したためのようだ。その原因は、紛争で被った被害の復旧や生産増強のための投資ができないこと、鶏に与える飼料や薬品など生産に必要な輸入物資の価格が高騰したことで、生産を止めてしまった業者が増えていることらしい。この問題は地元紙でも頻繁に取り上げられているが、当局によると卵1個(価格は150SP)の生産経費は130SPに上るそうだ。養鶏に必要な物資の輸入が停滞しているのは、通貨の暴落や各種制裁だけでなく、8月初頭のベイルート港での爆発事件により、ダマスカスをはじめとするシリア南部にとっては「外港」であるベイルートを通じた輸入が滞っていることも原因である。こうして、市中で販売される鶏の丸焼きの価格も1羽1万3000SPに高騰し、これに怒った人民の「とり肉ボイコット」運動とも相まって販売数が激減した。

 生産に必要な物資(肥料、飼料、農業用の各種薬品)が輸入できなくなることによって食糧不足が生じ、シリア紛争の結果に影響を与える(=政府側が負ける)という予想なり希望的観測なりは、紛争初期の2012年から度々出回っていた。しかし、食糧不足や人民の生活水準の低下が起きた際の結果は、多数のシリア人の海外脱出ではあったが政権の崩壊ではなかった。2015年~2016年のいわゆる「シリア難民危機」でパニックに陥ったEU諸国の多くが、シリアに対して経済制裁を科したり、イスラーム過激派を放任したりしてシリア人民の生活水準を一生懸命低下させていた主体であるのは皮肉以外の何物でもない。現在も、シリアの復旧復興や人民の生活水準の向上を妨害することによって紛争の最終的な結果に影響を与えようとする政策(=「復興の武器化」)が採られているが、これがもたらす結果はさらなるシリア難民の流出や、EU諸国や近隣諸国での難民の滞留になる可能性が高い。もちろん、政権側も敵対した国や勢力に権益を与えない、反抗した者の生活を再建させないなどの政策によって「復興の武器化」を進めている。いずれの当事者も、自らの政策を「シリア人民のため」と主張するだろうし、部外者がシリアに対する経済制裁の不当性や「独裁政権」の圧政を非難するのもいたって簡単なことである。しかし、そうした中で、本来誰もが「助けてあげたい」と思っているはずのシリア人民だけがどんどん困窮していることを、もうちょっと気にしてもいいのではないだろうか。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会、『シリア紛争と民兵』晃洋書房など。

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