コーチ冥利に尽きるラグビー日本選手権
これぞ、コーチ冥利に尽きるというものか。ラグビーの日本選手権(1月31日・秩父宮ラグビー場)で、元日本代表プロップの“スクラム職人”、相馬朋和コーチはパナソニックと帝京大のスクラムを指導していた。肩書きはパナソニックのスクラムコーチで、帝京大学のFWコーチ。
試合はパナソニックが49-15で勝った。ノーサイドの瞬間の心中を問えば、白いマスクを付けた38歳は「ぼくは幸せだなって思いました」としみじみ漏らした。
「だって、関わっているチームが両方、日本選手権で戦っているんですよ。いい試合でした。パナっていいチームだナと思いました。帝京っていいチームだナって思いました。こんなにいいチーム二つにかかわれてよかったなって、そう思いました」
なぜ、白いマスクをしているかといえば、相馬コーチはこの週、風邪で高熱を出してダウンしていたからだった。水曜日はパナソニックの練習を指導し、木曜日には帝京大のグラウンドに行った。突然、金曜日に39度近くの熱が出た。
「ストレスだったんでしょ。体調崩して、金曜、土曜と寝ていました。幸運にもインフルエンザじゃなかったんです。だから、ここにも立っていられるんです」
相馬コーチは試合中、パナソニックのチームコートを着て、帝京大学のベンチに立っていた。練習もだが、こういった立場を許されるのも両チームの寛容さと理解があればこそだろう。互いのチーム首脳からは「すべては本人の判断は任せる」と言われていたそうだ。
試合は立ち上がり、パナソニックが2本続けて、ノーホイッスルトライを決めた。相馬コーチはピッチ内まで入って、キックオフに戻る帝京大選手に大声で指示を与えた。
何を?
「ディフェンスの立つ位置の修正ですね。トップリーグに勝つならば、日本一になるならば、直さないといけない点だったんです」
焦点のスクラムでは、パナソニックが圧力をかけながらも、要所では帝京大も踏ん張った。とくに後半30分ぐらいの帝京大ゴール前ピンチの帝京大ボールのスクラム。8人がまとまって縦に長く低く組んで、パナソニックの押しをがちっと受け止めた。
試合中は、「常に両チームを見ていました」と相馬コーチは笑い、「スクラムは五分五分じゃないですか」と言った。
「パナソニックが押す場面もありましたけど、もともとの力の差を含めると、五分五分でしょ。パナはもっとスクラムで勝っておくべきだったんじゃないですか」
帝京大の成長と聞けば、「一番の成長はスクラムでしょ」と即答した。スクラム職人のスクラム指導はシンプル、かつ丁寧である。まっすぐ組んで、まっすぐに押していく。肩、ひじ、胸の使い方を工夫する。ひざのタメをつくり、足の裏の位置を微妙に変える。
「今日の試合、どっちのチームにもスクラムの同じことを教えているからオモシロかったですよ。スクラム、綺麗だったじゃないですか。ぼくはいつも、スクラムは綺麗になってほしいと願っているんです。ほら、スポーツでよく、美しいものが強いっていうじゃないですか。スクラムもまさに、その通りなんです。強いスクラムって、まっすぐだということです。曲線がないということです。スクラムの線がぜんぶ、直線でできあがっているんです」
つまりは、8人の背中がまっすぐの直線となり、縦長に組まれている。あるいは、フロントローの肩の線がゴールラインと平行にビシッと一直線になっているということである。これは、8人がいい姿勢で、いいバインディングで結束よく、組まなければならない。
「きょうはパナも本気でした。帝京大も本気で勝ちにいっていた。帝京の何がよかったって、反則をなかなかしないじゃないですか」
その通りである。反則数は、パナソニックが「12」に対し、帝京大はわずか「2」だった。
「帝京大が誇るべき、一番の部分だと思います。練習から、そんなこと(反則プレー)は絶対、教えません。グレーの部分もしない。教えても、社会に出た時にマイナスにしかならないでしょ。また基本プレーがしっかりしているからです」
帝京大を卒業し、三洋電機(現パナソニック)に入った。帝京大はいまや、大学選手権7連覇である。どうしたって、後輩を指導するのにも熱がはいるだろう。
帝京大の財産は?、強みは?と聞いた。相馬コーチは明快だった。
「人です。スタッフを含めて、ラグビーに関わる人のひとり一人の質の高さでしょうね。みんな、よく働きます。助け合っています。お互いに気を配り合っています。自分だけがよければいいと思っている学生などいません。気配り、心配りができる。それは、関わっている大人たちが、心配りができるからです。財産も強みも人です、人」
試合終了から約2時間。ラグビー場の外の暗闇の中、大柄の相馬コーチはそう言いながら、パナソニックの荷物をバンにせっせと運んでいた。若いスタッフから「はやくトロフィー運んでください」と言われると、白いマスクを整えて、「了解」と小声で言うのだった。