「言うこと聞けば側室にしてあげるよ?」70歳の徳川家康に言い寄られた異国美女の選択とは
織田信長・豊臣秀吉の後を継いで天下統一を成した徳川家康は、生涯で数多くの女性を愛し、子宝に恵まれたことで知られています。
日本を掌握し、金も名誉も女性も思いのままであった徳川家康は、「望月の歌」でこの世のすべてが自身のものであると詠った藤原道長と同じ思いを抱いたのではないでしょうか。
しかし、そんな徳川家康に言い寄られても拒絶を貫き激動の人生を歩んだ異国の美女がいました。
※本記事の内容は様々な方に歴史の魅力を感じていただけるよう、史実を大筋にした「諸説あり・省略あり」でお届けしています。
・「おたあジュリア」
1592・1598年、日本統一を果たした豊臣秀吉は世界進出を目論み、朝鮮征服を掲げて朝鮮半島(現・韓国)への攻撃を開始。朝鮮の村々を何度も襲撃した日本軍は、略奪や拉致を繰り返し、親類を亡くした戦争孤児は保護して日本へ連れ帰りました。「おたあジュリア(以下、ジュリア)」も戦争孤児として日本へ連れてこられた子どものひとりです。
身寄りのないジュリアを引き取ったキリシタン大名「小西行長」は、言葉の通じない彼女に「おたあ」という日本名と「ジュリア」という洗礼名を授け、実の娘のように可愛がりました。
聡明なジュリアは早い段階で日本語を理解し、キリスト教の教義や小西家の家業と関わりの深い薬草の知識を会得。数年後には見目麗しい大人の女性へと成長しています。しかし、彼女の平穏な日々は長くは続きませんでした。
・小西行長の死
1600年、徳川家康と石田三成の間で「関ヶ原の戦い」が勃発し、西軍として参戦した小西行長は敗北してしまいます。
怒涛の逃亡劇の末、落武者狩りに遭った彼は観念して自分を徳川家康のもとへ連れて行くように指示。後日、石田三成と同時に斬首刑に処されました。
その後、小西家は没落し、ジュリアは天涯孤独で職もない危機的状況に陥ります。
このなか、関ヶ原の戦いで勝利を治めた徳川家康は聡明で美しいと噂のジュリアに興味津々。彼女を大奥に招待し、伏見城で正室の食事係(侍女)としての役職を与えました。
・信仰
侍女生活のなかでもジュリアはキリストを信仰しており、同僚の侍女にも教えを説いていたといわれています。
本当の家族を朝鮮で失い、新しくできた家族の小西行長も戦争で亡くした彼女にとって縋れるものはキリスト教しかなかったのかもしれません。
しかし、1612年に徳川家康が「禁教令」を発動し、日本国内でのキリスト信仰は固く禁じられてしまいます。徳川家康はジュリアにも禁教を命じ、「言うことを聞けば側室にしてやる。贅沢な暮らしができるぞ。逆らえば、容赦はしない」と脅しました。
しかし、ジュリアは徳川家康の命令を無視。信仰を捨てることも、側室になることも拒み、徳川家康の怒りを買ったことで死刑と同等とされる「島流しの刑」を言い渡されてしまいます。
・島流し
島流しを言い渡されたジュリアは、東京から数十kmも南にある神津島へ流されてしまいました。現在の神津島は東京都に属する島で、伊豆諸島にある有人島のひとつとして知られています。
当時は数件の古屋があるのみで人は数人しか住んでおらず、食料の確保も困難でした。厳しい生活環境でしたが、彼女は逆に信仰に使える時間が増えるとして喜んだといわれています。また、島生活では病人を看護したり、島民や同じように流されてきた罪人に教えを説いたりと、それなりに充実した日々を送っていたようです。
ときには、徳川家康の使者が訪れて信仰を捨てて帰ってくるように命じられることもありましたが、拒絶を貫いたジュリア。日本を掌握した徳川家康ですが、彼女のことは最後の最後まで手にすることができませんでした。
その後のジュリアは所在不明。本土へ帰還したとも、神津島で生涯を終えたともいわれています。