政略結婚→家康出産→即離縁→再婚…政治に翻弄されて波瀾万丈な人生を歩んだ天下人の生母「於大の方」紹介
戦国時代の当時、若く美しい女性は政略結婚の道具として利用されました。
数多くの女性が御家繁栄のために貞操を捧げ、見知らぬ男性との結婚を強いられたのです。
徳川家康の母・於大の方(以降、於大)も政略結婚を経て、徳川家康を出産しています。
今回は、そんな波瀾万丈な人生を歩んだ於大についてみていきましょう。
・母と同じ道を辿る於大
1582年、水野忠政と於富のあいだに産まれのが於大です。
於大の母・於富は傾国の美女ともいわれ、彼女は政略結婚を経験した女性でした。
そして、娘の於大もまた母と同じような道を辿ることになります。
当時、斯波家と織田家の台頭に周辺諸国は焦燥。
この勢力に対抗する同盟結成を画策した水野忠政は、14歳の於大を三河国領主・松平広忠へ嫁がせます。
翌年、15歳の於大は「竹千代(のちの徳川家康)」を出産しました。
・離縁
徳川家康が生まれた3年後、水野家当主の水野忠政が死亡。
家督を継いだ水野信元は松平家との関係を断絶し、新進気鋭の織田家を支持しました。
水野信元の政策意向により、嫁ぎ先の松平家を追い出されることになった於大。
一国の姫君だった彼女ですが、追い出された際は護衛の付き人も途中までと松平家の扱いは散々なものでした。
それでも、彼女がいちばん悔しかったのは、わずか3歳の息子との離縁かもしれません。
さらに、水野家に戻った於大は久松氏(織田方の家臣)との再婚を命じられてしまいます。
・息子との再会
久松氏に嫁いでからも、於大は幼くして離縁した竹千代のことばかりを気にかけていました。
竹千代が織田家の人質となった際は、季節に合わせた着物や菓子の詰め合わせを使者に届けさせています。
その後、今川家の人質となった竹千代とは連絡がとれなくなってしまいますが、母・於富が竹千代の教育係を担当していたため家族の絆が絶たれることはありませんでした。
そんな生活から17年後。1560年に元服を迎えた徳川家康は自由を得ます。
そこで2人は念願の対面を叶えたのです。
長年人質生活を送った徳川家康にとって精神面を支えてくれた母の存在は偉大なものでした。
当時の感謝を母に伝えた彼は今川家を独立し、天下への道を突き進むのです。
のちの天下の支配者・徳川家康を支えた母・於大の像は、愛知県刈谷市にあります。
気になった方は足を運んでみてください。