負け戦は承知の上!病体に鞭打って親友と関ヶ原の合戦を駆けた「大谷吉継」の生き様
大谷吉継といえば、石田三成と共に「関ヶ原の合戦」で命を散らした名武将のひとりです。
徳川家康の勢力には敵わないと予期しながらも、戦場へ身を投じて亡くなりました。
大谷吉継は、なぜ負け戦に挑んだのでしょうか。
※本記事の内容は様々な方に歴史の魅力を感じていただけるよう、史実を大筋にした「諸説あり・省略あり」でお届けしています。
・大谷吉継の出自
大谷吉継は、歴史的に見ても謎の多い人物です。
出生不明・父親不明で少年時代も謎に包まれています。
そんな大谷吉継が歴史上に登場するのは、豊臣秀吉に支えるようになってからのこと。
そこで生涯の親友・石田三成とも出会うことになります。
・石田三成との出会い
1582年、明智光秀の謀反により織田信長が死亡。織田政権の時代が終わり、再び動乱の世が訪れようとしていました。
誰のもとに支えるかで大きく運命が変わった当時、大谷吉継は豊臣秀吉に支え続けることを決意します。そして、賤ヶ岳の戦い・紀州征伐・九州征伐・小田原征伐など、多くの戦場に参戦にして功績を残しました。
彼の才能は戦場を離れ、内政の面でも高い能力を発揮。豊臣秀吉も大谷吉継の才能を認めており、同世代の天才・石田三成と同レベルの逸材だと評価しています。
あらゆる面で豊臣家に尽力した大谷吉継と石田三成の二人は日頃から行動を共にする機会も増え、自然と良好な関係を深めたのでした。
しかし1594年頃、大谷吉継は病(通説ではハンセン病)を患ったせいで療養を余儀なくされ、豊臣政権の中枢から離れることになってしまいます。
・生涯の親友
大谷吉継が病を患ってからしばらくしてのこと。
大阪城で豊臣政権の重要人物ばかりを招いた茶会が開かれました。
大谷吉継・石田三成もこの茶会に招待されています。
参加者はひとつの茶碗に注がれた茶を一口ずつ飲み回すというものでした。
しかし、皮膚の病気を患っていた大谷吉継は自分の番で誤って茶碗に膿を落としてしまいます。
参加者らは茶碗に口をつけることを嫌がり、飲んだふりをするものが続出。
そのとき、石田三成は茶碗に躊躇することなく口をつけ、一口どころか全部飲み干して「もう一杯いただけますか」といったのです。
この出来事を機に二人の友情は、さらに深まったのでした。
・関ヶ原の合戦に挑んだ理由
1598年、石田三成と大谷吉継が支えていた豊臣秀吉が病死。
豊臣政権の維持を狙う石田三成と全権力を継承したい徳川家康の間で天下分け目の決戦「関ヶ原の合戦」が勃発したのです。
軍師として大きな戦場を指揮した経験のある大谷吉継は無謀な戦いであることを見抜き、3度に亘って石田三成を諌めました。
しかし、豊臣家に忠誠を誓う石田三成の意思は固く、負け戦と知りながらも出陣を譲らなかったのです。
親友の決意を知った大谷吉継は共に戦うことを選択します。
そして石田三成率いる西軍の中枢を務め、病に侵された体でありながら前線に出て戦ったのです。
しかし、西軍陣営・小早川秀秋の裏切りを皮切りに謀反者が続出し、西軍は壊滅。大谷吉継は戦場で自刃し、命を散らしました。
※小早川秀秋の裏切りについては下記記事で紹介しています↓
関ヶ原古戦場跡では「大谷吉継」に関する資料のほか、関ヶ原の合戦に尽力した行動ルートも観光できます。