絶倫将軍は未亡人がお好き?正室放置で見境いなく女性を妊娠させた天下人
戦国武将は男色を好む傾向があり、小姓(側近の少年)との性行為で性欲を満たすことができました。
そのため、数十人もの側室をもうけた戦国武将は意外にも少なかったのです。
しかし、徳川家康は男色を好まない生粋の女性好きで、正室・側室を含め22人の女性をめとっています。
彼は、最初に結婚した正室・築山殿(瀬名)をほったらかしにして、多くの女性と関係を持ちました。
今回は、徳川家康と妻たちの関係をくわしくみていきましょう。
※本記事の内容は様々な方に歴史の魅力を感じていただけるよう、史実を大筋にした「諸説あり・省略あり」でお届けしています。
・二人の正妻「築山殿」と「朝日姫」
徳川家康の最初の正妻は「築山殿」です。
今川家当主・今川義元が、人質の徳川家康と今川家臣の関口氏の娘・築山殿を仲介しました。
築山殿と徳川家康の結婚生活は順調で、長女と長男をもうけています。
しかし、桶狭間の戦いで今川義元が戦死し、今川家の人質だった徳川家康は自由を手に入れて独立。
さらには、今川義元を討った織田信長と和睦して同盟を結んでしまうのです。
この徳川家康の今川家を裏切る行為は、築山殿との関係を最悪なものにしました。
以降、築山殿は度重なる悲劇を繰り返し、最終的には徳川家康の家臣に殺されてしまうのです。
度重なる築山殿の悲劇について詳しく知りたい方は、過去の記事で紹介しています。↓↓
築山殿の死後、二人目の正妻となったのが豊臣秀吉の妹「朝日姫」です。
当時、豊臣と徳川は本能寺で急死した織田信長の権力相続をめぐって対立する仲でした。
考えた豊臣秀吉は、妹の朝日姫と徳川家康を結婚させ、自身の親族関係者(妹婿)にしてしまおうと考えたのです。
徳川家康と朝日姫の結婚生活は悲惨なもので、二人は別居状態。
結婚から4年後、朝日姫は京都でひとり死去しました。
徳川家康は二人の正妻をもうけましたが、そのどちらとの関係も最悪であり、結婚生活はうまくいかなったといわれています。
・徳川家康が側室に迎えた女性の共通点
正室のほか、20名の女性を側室にしたとされる徳川家康。
彼が側室に選んだ女性には、奇妙な共通点がありました。
それは、夫に先立たれた「未亡人」であるということです。
例えば、側室でありながら2代目将軍・秀忠の母となった「西郷局」は、先夫との間に一男一女を授かった出産経験のある未亡人でした。
また、徳川家康が側室のなかで最も寵愛したといわれる「阿茶局」も2人の男児を出産している未亡人です。
徳川家康が未亡人ばかりを側室に迎えたのは偶然かもしれませんし、理由も判明していませんが、徳川家康が確実に嫡男をもうけるために出産経験者を選んだ説や夫のいない女性を養うために側室にした説などがあります。
多くの側室がいた徳川家康ですが、毎日側室と床をともにしていたわけではありません。
城下町に気に入った娘がいれば声をかけ、正室・側室の女中にまで手を出していた彼は毎晩かわるがわる別の女性を抱いたのです。
なかには、女中や低い身分でありながら懐妊してしまい、将軍家康の側室になった女性もいます。
そんな徳川家康は戦国時代を代表する絶倫武将といえるでしょう。
絶倫武将といえば、徳川家康のほかにも、豊臣秀吉がいます。
天下を支配した二人の共通点は絶倫かつ女性好きであり、戦国時代においては性欲の強い男性が偉業を成し遂げる傾向にあったのかもしれません。
今回紹介した徳川家康の勇ましい騎馬像は、愛知県岡崎駅前にあります。
気になった方は足を運んでみてください。