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絶対に許さない!死して尚も夫・徳川家康を恨んだ過酷すぎる築山殿(瀬名)の生涯とは

山内琉夢歴史プレゼンター

徳川家康の妻・築山殿(築山御前)をご存知でしょうか。

TVドラマ・映画では瀬名とされる女性です。

出生に関しては謎に包まれており、徳川家康と同年齢(もしくは、少し歳上)というのが通説とされています。

過酷な人生を送った女性のひとりとして知られる彼女の身に一体何があったのでしょうか。

※本記事の内容は様々な方に歴史の魅力を感じていただけるよう、史実を大筋にした「諸説あり・省略あり」でお届けしています。

・人質との結婚

徳川家康像
徳川家康像

1540年代、名門・今川家の家臣「関口親永」の娘として生まれたのが築山殿です。

叔父は今川家当主の今川義元で、恵まれた環境下で育ったといわれています。

名門のお嬢様として育った彼女ですが、結婚相手に紹介されたのは当時今川家の人質であった松平元康(徳川家康)でした。

・息子爆誕

築山殿と家康の婚姻から2年後、二人の間に長男・信康が誕生します。

その直後、築山殿は長女・亀姫を妊娠。

身分格差が懸念された二人ですが、順風満帆な結婚生活を送ったといわれています。

しかし、1560年「関ヶ原の戦い」を境に、築山殿の人生は波瀾万丈を極める過酷なものとなるのです。

・家康の裏切り

1560年、今川義元が織田領へ侵攻して「桶狭間の戦い」が開戦します。

圧倒的な兵力差で勝利を確信していた今川軍でしたが、織田信長の掌で踊らされ大敗。

当主の今川義元も討ち取られてしまいます。

今川義元の死後、夫の家康は今川家を捨てて岡崎城へ。

さらに、今川家の仇である織田信長と同盟を結んでしまいます。

そのせいで、今川家に取り残されていた築山殿と子供らは、裏切り者の家族として人質同然に扱われたのです。

一方、岡崎城を拠点に構える家康は妻子を送り届けるよう今川家と交渉していました。

しかし、拒否されたため、今川の城を攻め落として人質交換を要求するなど、やりたい放題。

人質交換は成功しますが、家康の身勝手な行動は反感を買い、今川家に取り残されていた築山殿の両親は腹いせに殺されてしまいます。

・家康の女遊び

岡崎城公園前付近
岡崎城公園前付近

人質交換が成功したことで岡崎へ移り住んだ築山殿ですが、今川家の一族である彼女は岡崎城への立ち入りが認められず、城外での生活を強いられました。

さらに、徳川家康は正室の築山殿を差し置いて側室とばかり床を共にする生活を続け、しまいには築山殿の侍女を妊娠させてしまうのです。

怒りに狂った築山殿は、身籠った侍女の着物を剥がし鞭を振り回して追いかけたといいます。

そして、そんな彼女をさらに追い込む出来事が起こったのです。

・仇の娘と息子の結婚

岡崎城看板
岡崎城看板

1567年、長男・信康が織田信長の娘・徳姫と結婚。

一族の仇であり、両親の死を招いた元凶ともいえる織田信長の娘と大切な息子が結婚したのですから、築山殿の心中は穏やかではなかったでしょう。

1570年に元服した信康が岡崎城を継ぎ、入城を許された築山殿は徳姫と生活を共にします。

この生活のなかで、築山殿は徳姫に冷たい態度を取り続けたのです。

信康と徳姫は、子宝に恵まれました。

しかし男児ができなかったため、築山殿はそれを理由にし、信康に側室を設けるよう率先して指導するなど嫌がらせをしています。

このような状況に嫌気が差した徳姫は1579年、「信康と築山殿は武田家と内通している」などと記載した文を信長に届けたのです。

宿敵武田家との内通を見逃せなかった信長は、築山殿と信康の処刑を家康に命じたのでした。

築山殿は家康の家臣に虐殺され、信康は母の死から数日後に自害して亡くなっています。

二人の死後、岡崎城下では疫病や不審火が相次ぎ、築山殿と信康の怨霊だとも恐れられました。

八柱神社
八柱神社

築山殿の墓は、現在の八柱神社に安置されています。

歴史プレゼンター

歴史ライターとしての活動経験を持ち、今までに32都府県の歴史スポットを巡ってきました。実際に現地へ行くのが難しい方に向けて、取材した歴史スポットについて紹介します。また、歴史に興味をもったことがなかった方にも楽しんでいただけるよう、歴史偉人の意外な一面や好きな食事・おやつの紹介など、ワクワクするような内容をお届したいです。

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