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【清州会議】で三法師が織田家の後継者に選ばれたが、その後はどんな人生を歩んだのか?

歴ブロ歴史の探求者

1582年6月2日、本能寺の変で織田信長と嫡男・信忠は明智光秀によって討たれてしまいます。しかし、羽柴秀吉の活躍により明智光秀は討たれ、信長の仇を討つことが出来ました。

織田家の当主と跡取りが同時に居なくなり、後継者を決めるために清州城で重臣であった柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・池田恒興による【清須会議】が行われます。この時、候補になったのが次男・信雄と三男・信孝、そして織田信忠の嫡男・三法師。

清州会議ではさまざまな駆け引きがあったようですが、信忠の嫡男・三法師が織田家の後継者として選ばれました。その後の三法師と織田家は、秀吉が天下統一の過程でさまざまな試練に直面します。

そこで今回は、三法師(織田秀信)の人生を追っていきましょう。

清州会議で織田家の後継者となる三法師

三法師家系図
三法師家系図

羽柴秀吉の推挙によって3歳で織田家の後継者となった三法師は、織田家の遺領である近江・坂田郡と安土城を相続することになりました。ちなみに、次男・織田信雄は尾張国、三男・信孝は美濃国を相続しました。また、四男で秀吉の養子になった羽柴秀勝は、明智光秀の旧領・丹波を相続しています。

三法師は相続後に安土城に入城する予定でしたが、織田信孝が三法師を岐阜に抱え込んでしまい出てこなかったため秀吉は岐阜城を包囲しました。秀吉に敗れた信孝は三法師を引渡します。こうして三法師は、祖父・信長から相続した安土へ行く事が出来ました。

その後、織田信孝は賤ヶ岳の戦いの際、柴田勝家に呼応して岐阜から秀吉を攻めますが、勝家が敗れると降伏し、信雄の命令で自害しています。

13歳で岐阜城の大名に

出典:イラストAC 岐阜城
出典:イラストAC 岐阜城

羽柴秀吉と織田信雄(徳川家康)の対立が原因で起こった小牧・長久手の戦いが勃発します。この混乱の中、幼い三法師は丹羽長秀から秀吉の元へとたらい回しにされていました。

1584年11月に秀吉と信雄の和睦が成立し、家康が手を引いて戦いが終結すると秀吉は織田家の後継者を正式に織田信雄と決めます。三法師は丹羽長秀の元へ預けられ、1588年に9歳で元服し織田秀信と名乗りました。そして、従四位下・侍従の位を賜ります。

織田秀信(三法師)に転機が訪れるのは13歳の時で、秀吉の養子であり秀信の叔父である豊臣秀勝が亡くなると岐阜城を相続し、13万石以上の領地を持つ大名となりました。清州会議以降、都合よく利用されてきた秀信ですが、わずか13歳で大名にまで出世したことから、秀吉から優遇されていたようにも感じられます。

豊臣政権下では好待遇を受けながらキリスト教へ入信

1593年の文禄の役では、豊臣秀勝の後任として渡航して出兵しました。なれない土地で体調を崩す者も多く死者も出ましたが、秀信は無事に帰国します。その後、秀吉から羽柴姓を賜り、従三位・中納言になり、豊臣政権下でかなりの好待遇を受けます。

この頃から、秀信はキリスト教を信仰するようになります。しかし、秀吉がバテレン追放令を発令していたため、公には活動を控え、キリシタンであることも隠していました。しかし、秀吉の死後は積極的に布教活動を開始しました。

岐阜城下に教会や司祭館、養生所などを建設し、尾張や美濃で信者が増えていきました。家臣たちの多くも信者であったと、当時の司祭たちから報告されています。一方で、寺院や寺社の建立にも力を入れ、秀信が岐阜城主としての時代は、一揆や争いがほとんどなかったと言われています。

関ヶ原の戦いでは西軍に

出典:イラストAC
出典:イラストAC

1600年、織田秀信は家康の会津征伐に従軍する予定でしたが、軍備が間に合わず後れをとってしまいました。その間に、石田三成が佐和山城から挙兵し、関ヶ原の戦いが始まります。

秀信は三成から『勝利したら美濃・尾張の2か国を与える』と誘われ、西軍に味方することを決めます。この決断により、多くの美濃国衆が西軍につきましたが、家老たちは家康に従うよう説得しますが秀信は却下します。

東軍が美濃に進軍してくると、秀信はこれを迎え撃ちましたが、圧倒的な兵力差に敗北し、岐阜城へ退却しました。こうして、関ヶ原の前哨戦は東軍の勝利に終わります。

秀信は岐阜城に籠城しながら大垣と犬山城に援軍を求めました。しかし、犬山城は既に徳川家と内通しており、大垣城からの援軍は東軍によって敗走させられました。それでも秀信は籠城して抵抗しますが、圧倒的な兵力差に敵わず池田輝政と家臣たちに説得されて降伏しました。

池田輝政の父・恒興は信長と乳兄弟であった事から、輝政も秀信に対して何か思う所があったのかもしれませんね。

高野山へ追放されるも祖父が原因で下山

出典:イラストAC
出典:イラストAC

東軍の勝利により関ヶ原の戦いは終結し、戦後処理が行なわれます。この時、東軍の武将・福島正則は『自分の武功はいらないから秀信を助けてくれ』と嘆願します。結果、助命されましたが高野山へ追放されることになりました。

しかし、高野山は信長によって攻め込まれた場所であり、僧たちは秀信の入山を当初拒んでいました。渋々受け入れたのですが高野山で僧たちから迫害を受け、1605年に下山したと言われています。

その後、村に住みそこの娘と結婚し、子供をもうけたという話もありますが、26歳の若さで亡くなったとされています。

13歳で大名となり豊臣政権では好待遇を受け、順風満帆に行くかと思えば、天下分け目の決断で最大の失敗をします。『もし東軍についていれば…』と思う今日この頃ですが、織田家にとって由緒ある【美濃と尾張】に思い入れがあったのかもしれませんね。

歴史の探求者

歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。楽しく分かりやすく歴史を紹介していければと思います。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。

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