アフリカ・ブームの国際政治経済学 5.テロと政治変動のリスク(1)
アフリカにおけるテロ組織の台頭
「アフリカ・ブームの国際政治経済学 4.成長と貧困が併存する大陸」で述べたように、広がりをみせる「豊かさを感じにくい成長」のもと、アフリカではテロ組織の活動が活発化している。図5-1は2000年以降の世界各地域における、個人や官公庁などへの襲撃、爆破、暗殺、誘拐といったテロ事件の発生件数の合計を示している。米国主導の対テロ戦争の主戦場であり続けてきたアフガニスタンやパキスタンなどの南アジア、イラク、シリア、アルジェリア、リビアなどの中東・北アフリカが一貫して多いが、2010年代に入る頃からサハラ以南アフリカでもテロ事件が増加していることがわかる(国際テロ組織の概要や最近の動向については各種の報告があり、米国務省の『反テロリズム国別報告』や公安調査庁の『国際テロリズム要覧』などで確認できる)。
それに合わせて犠牲者も増加しており、表5-1で示すように、世界で活動が最も目立つ組織の上位5番目までに、サハラ以南アフリカからナイジェリアの「ボコ・ハラム」と、ソマリアの「アル・シャバーブ」がランクインしている。これらは拠点となる国だけでなく、近隣諸国でもテロ活動を行っている。ボコ・ハラムは2013年2月、隣国カメルーンで子供を含むフランス人7名を誘拐した。アル・シャバーブはやはり2013年9月、隣国ケニアの首都ナイロビ近郊でショッピングモールを占拠する事件を引き起こしている。
これらに加えて、2013年1月にアルジェリアで発生した、日本人を含む外国人拉致事件の首謀者モフタール・ベルモフタールが設立に加わったAQIM(イスラーム・マグレブのアル・カイダ)も、活動の活発さで知られている。近年、AQIMは外国人の誘拐を重点的に行うようになっている。例えば、2009年11月にモーリタニアで3人のスペイン人援助関係者が誘拐され、700万ユーロ(約9億8,000万円)の身代金によって解放されている。
日本人が海外でテロ被害にあう度、国内では「専門家」と称する人間が「テロリストとは交渉しないのが国際的な常識」と力説することが多いが、これは各国政府の表向きの主張をオウム返しにしているだけであって、実際にはその限りではない。もちろん状況にもよるが、非常時に自国政府が国民の安全を関知しないのであれば、援助であれビジネスであれ、危険地帯で活動することは困難である。それが引いては自国にとっての損失でもあることを、海外に人を送り出すことの多い国の政府は承知しているといえよう。
いずれにせよ、アフリカでテロ組織が林立し、AQIMに限らず外国人誘拐が一種の「ビジネス」にすらなるなか、2011年9月には米アフリカ軍(US Africa Command: AFRICOM)司令官が、ボコ・ハラム、アル・シャバーブ、AQIMの3組織が連携する可能性への懸念を示している。テロ組織の連携は、アフリカでテロを加速度的に拡散させる危険性をはらんでいる。
ボコ・ハラムの事例
現代のアフリカにおいて、とりわけその活動が目立つのが、2014年4月に200名以上の女子学生を誘拐し、日本でもその知名度が一躍高まった、ナイジェリアのボコ・ハラムである。アル・シャバーブやAQIMは、その設立段階から中東や南アジアなど、アフリカ外部の組織と物心両面で連携が密接だった。例えば、先述のベルモフタールは1980年代末、当時ソ連軍に占領され、これと戦うために世界中からイスラーム義勇兵が参集していたアフガニスタンで戦闘に参加していた。これらと比べると、ボコ・ハラムは少なくとも当初は、ナイジェリアに根差した組織であった。それだけに、その発生と台頭からは、アフリカが抱える問題をうかがうことができる。
ボコ・ハラムは2002年頃、ナイジェリア北東部のボルノ州で、モハメド・ユスフにより設立された。1990年代中頃、ボルノ州では失業中の若者やストリートチルドレンを吸収したイスラームの学習サークルが生まれた。当初、社会から隔絶していたこのサークルからユスフは分離し、ボコ・ハラムを結成したのである。
ボコ・ハラムとはナイジェリアの主要言語の一つハウサ語で「西洋の教育は罪」を意味する。ユスフ自身の情報はほとんどないが、一説では西洋式の教育を受けていたとみられる。また、1980年代のアフガニスタンで生まれた、ビン・ラディンらの国際ジハード運動との接点も確認されていない。
ボコ・ハラムはキリスト教徒や進化論を教える世俗的な学校、さらに(コーランの教えに反する)アルコール販売業者などへの襲撃を行うなかで、警察とも衝突を繰り返すなど、徐々に行動をエスカレートさせていった。その結果、2009年7月、武器を大量に集めていたボコ・ハラムはナイジェリア軍と衝突し、この混乱のなかでユスフは警官により射殺されたのである。
その1年後の2010年7月、ユスフの教え子の一人であったアブバカル・シェカウが新指導者に就任した。ユスフと同様、シュカウの個人情報もほとんど不明だが、確認される範囲では西アフリカ以外で活動した記録はない。しかし、そのもとでボコ・ハラムはさらに過激化の一途をたどった。キリスト教会、政府庁舎、警察署、国連施設だけでなく、2013年以降は学校すらも攻撃の対象となっており、2014年2月には北東部ヨベ州で中等学校の寄宿舎が襲撃され、生徒ら43名が殺害されている。そのなか、2013年3月には北東部3州で非常事態宣言が出され、年末までに30万人が避難する事態となった。
これと連動してAQIMなど外部勢力との結びつきも強めており、2012年1月にはニジェールの外相が「ボコ・ハラムのメンバーがAQIMから爆発物のトレーニングを受けている」と発言している。その脅威はナイジェリア国内や近隣諸国だけでなく、アフリカの外にまで及んでいる。2011年11月に米国議会国家安全保障委員会はボコ・ハラムを、ナイジェリア系移民などを通じて米国内部での破壊活動を誘発させかねない「米国本土に対する新たな脅威」と認定した。その後、ボコ・ハラムの活動が活発化したことにより、2013年6月にはさらに指導者シェカウの所在に関する情報に700万ドルの懸賞金を出すことを決定している。
2014年9月24日、ナイジェリア軍は「シュカウが既に死亡しており、動画などで演説しているのは替え玉」と発表した。これに対して、10月2日に「シュカウ」を名乗る人物が動画サイト上に登場し、健在をアピールした。真偽のほどは定かでない。しかし、ナイジェリア軍の報道官がいうように、動画サイト上に現れる「シュカウ」が何者なのかは、もはや大きな問題ではない。重要なことは、仮に「シュカウ」が偽物であったとしても、その人物像がもはや一種のシンボルとなり、ボコ・ハラムが組織だったテロ行為を行いながら、勢力を拡大させていることなのである。
「アラブの春」とその後
2000年代以降のアフリカでは、ボコ・ハラムに代表されるテロ組織が活発化する一方で、政府に対する抗議運動や、それに起因する政治変動も頻繁に発生してきた。なかでもそれが大規模かつ連鎖反応的に発生したのが、2010年末からの「アラブの春」である。
2010年末以前の北アフリカ諸国では、多かれ少なかれ名目的な選挙が実施されながらも、それぞれの政府が事実上交代することがない体制が定着していた。メディアに対する監視や、警察などによる人権侵害が常態化し、国民の政治参加は形式以上のものではなかった。
しかし、2010年12月のチュニジアを起点に、権威主義的な体制に対する抗議運動は野火のように広がった。北アフリカに限っていえば、チュニジア(2010年12月)とエジプト(2011年2月)では抗議デモと軍の離反により、それぞれベン・アリ大統領(当時)とホスニー・ムバラク大統領(当時)がその座を追われた。リビア(2011年9月)では全面的な内戦の果てに、欧米諸国に対する敵対的なパフォーマンスで知られたアル・カダフィが反体制派に殺害された。モロッコでは王政が維持されたものの、憲法が修正され、従来は国王の任命制であった首相が国民選出の議会によって指名されることとなり、修正憲法に基づく選挙が2011年11月に実施された。
これらはいずれも、リビア反体制派の連合体「国民連合」に対する欧米諸国の支援のように、外部からの関与があったにせよ、基本的には権威主義的な政府に対する国民の抵抗の意思表示であったといえる。しかし、「アラブの春」後の北アフリカ諸国には、後述するエジプトほど二転三転したわけでなくとも、さらなる政治的混乱に直面する国が多い。
リビアではカダフィ体制の崩壊に伴い、人の往来が自由化された結果、テロリストなどの出入りも活発化している。2013年10月には、国外に逃亡していたアル・カイダ幹部のアブアナス・アル・リビーがトリポリで米軍に逮捕された。これに関して、「米軍の作戦を承知していた」という疑いから、その5日後にはアリ・ゼイダーン首相が内務省の警護を担当していた民兵組織に逮捕される事態となった。これらはいずれも、カダフィ体制崩壊後のリビアが、国家としては半ば形骸化していることを示す。
エジプトやリビアと比較して平静とはいえ、チュニジアでも2013年7月に世俗的な野党第二党「人民運動」党首のモハメド・ブラヒミが暗殺されるなど、やはり政治的暴力が目につく。モロッコでも、2013年には物価の高騰に抗議する数千人から数万人規模のデモが頻発し、首相退陣を求めるデモ隊と警官隊の衝突もたびたび発生している。北アフリカで体制が最も安定しているのはアルジェリアであるが、同国では選挙が行われながらも事実上の軍事政権のもとにあり、これがテロ組織だけでなくデモを強権的に鎮圧しているためである。
エジプト-モルシ政権の崩壊
ムバラク体制崩壊後のエジプトの混乱は、「アラブの春」の困難を象徴する。エジプトでは先述のように、30年に渡って同国を支配したホスニー・ムバラク大統領が、抗議デモの全国的な拡大と、さらに体制を支え続けた軍の離反により、2011年2月に退陣した。その後、軍による暫定統治のもとで、2011月12月から議会選挙が、2012年6月に大統領選挙が実施された結果、イスラーム団体の草分け的存在であるムスリム同胞団を母体とするFJP(自由公正党)とムハンマド・モルシ候補が勝利した。
選挙においてFJPやモルシはイスラーム色の強いメッセージを抑制し、むしろ雇用の創出や治安の改善などを強調したことで、リベラル派の一部の得票も集めた。中核的な支持者以外にもウィングを広げた選挙運動は、FJPに限らず、穏健派イスラーム政党に共通するものであった。
ところが、新憲法の起草過程で、FJPなどイスラーム系政党と、ワフド党などリベラル派やキリスト教徒との間での摩擦が深刻化した。イスラーム系政党は信仰の自由を認めながらもイスラームに特別な地位を認める条項を要求し、その調整に失敗した結果、リベラル派やキリスト教は2012年11月の採決を棄権したのである。これと連動して、イスラーム系とリベラル派やキリスト教徒の国民同士の衝突も頻繁に発生するようになった。さらに、治安の悪化がこれまでの海外との取引を収縮させ、図5-2で示すように、世界金融危機と政治的混乱によるインフレがある程度収束した後も、雇用に大きな改善がみられなかったことは、モルシ政権に対する広範な不満を増幅させた。
これらの背景のもと、新政府誕生1周年を目前にした2013年6月半ば頃から、モルシ政権の即時退陣を求める抗議デモがエジプト各地で発生した。ムバラク政権打倒の際にもSNSを通じて抗議デモを呼びかけたグループ、Tamarod(アラビア語で「反乱」を意味する)を中心に高まった政権批判に、FJP以外のイスラーム系政党やかつてのムバラク政権支持者たちも呼応した。これに対して、ムスリム同胞団系住民が政権支持のデモを繰り広げたため、国内の分裂が深刻化したエジプトは、内乱の淵に立ったのである。
この緊張が最高潮に達した7月、エジプト軍が介入し、モルシ氏をはじめムスリム同胞団、FJP幹部らを相次いで逮捕した。クーデタ後、マンスール前最高憲法裁判所長官を暫定大統領に担ぎ出し、事実上の最高権力者となったアブデルファタフ・サイード・シシ陸軍大将は、ムスリム同胞団の活動を禁止した一方で、病院で拘留中だったムバラク氏を保釈した。軍や裁判所は旧ムバラク政権支持者が多く、モルシ政権による政治改革は彼らにとって個人的な脅威でもあったのである。これに鑑みれば、2013年12月にムスリム同胞団が「テロ組織」の指定を受け、合法的な鎮圧の対象となったことは不思議でない。
2014年1月の国民投票では、モルシ政権のもとで作成され、暫定政府が修正を施した憲法草案が採択された。この修正により、新憲法では国防相の人事権が大統領ではなく軍に認められ、さらに宗教に基づく政党の結成も禁じられた 。その後、反体制派を抑え込みながら実施された2014年5月の大統領選挙で、96パーセント以上の支持を集めたシシ元大将が当選した。かつてのムバラク政権と同様、事実上の軍事政権に近い体制が誕生したことで、治安は改善されたものの、少なくとも民主化という観点からみた場合、エジプトは大きく後退したといえる。
社会不満を暴発させる背景 (1)不公正に由来する貧困や格差
ボコ・ハラムに代表されるテロ組織の活発化と、「アラブの春」に象徴される政治変動は、目標や手段に違いはあっても、既存の政府や社会への不満や批判に基づく点で共通する。そして、これらの不満の根本部分には、貧困と格差という社会病理があるといえる。
「アフリカ・ブームの国際政治経済学 4.成長と貧困が併存する大陸(1)」で述べたように、資源ブームに沸くアフリカでは、貧困や格差が解消されず、「豊かさを感じにくい成長」が広がっている。一方、対テロ戦争が始まって以来、「貧困がテロの温床になる」という考え方は広く流布している。国を問わず、貧困層ほどテロ組織に吸収されやすいことに鑑みれば、貧困や格差がテロの土壌になることは確かであろう。
そして、先述のように、エジプトで国民自身が選出したモルシ政権への広範な批判が高まった直接的な契機もまた、失業などの社会問題が解決されないことにあった。その意味で、サウジアラビアなど富裕なペルシャ湾岸諸国で、政府が世帯ごとに支給金を拠出したり、公務員の雇用を増やしたりした結果、抗議デモが沈静化したことは不思議でない。政治的な安定にとって、貧困や格差といった社会問題の改善は不可欠といえる。
ただし、低所得そのものがテロや政治変動を促すとは限らない。表5-2で示す世界銀行の統計によると、2011年のナイジェリアとガーナの一人当たりGDP(2005年平価)はそれぞれ約1,071ドル、724ドルで後者の方が低いが、テロが頻発しているのはむしろ前者である。また、北アフリカはサハラ以南アフリカと比べて、総じて所得水準が高いが、大規模な政変が発生したのは前者である。
つまり、貧困や格差がテロや政治変動に発展する場合、両者を結び付ける媒介があるといえる。これに関して、以下では大きく「不公正に由来する貧困や格差があること」と、「それを認識することができること」の二点に沿って検討する。
まず、貧困や格差と不公正について取り上げる。貧困や格差が、自由で公正なルールに基づく競争の結果ならば、それを受容することは比較的容易である。また、チャンスを活かせればサクセスも夢でないと期待できるなら、既存の社会秩序そのものを否定することは非合理的な判断となる。しかし、少なくともアフリカの社会には、貧困や格差を「個人の資質や能力の結果」と割り切り難い状況がある。
この点を、ナイジェリアに関してみていこう。表5-2で示したように、同国の経済規模はサブサハラ・アフリカで南アに次ぐ。第1章で触れたように、ナイジェリアは大陸一の産出量を誇る産油国であり、OPECの原加盟国でもある。これを反映して、図5-3で示すように、経済規模で2倍近い南アとほぼ同規模のFDIがコンスタントに流入している。
ただし、その人口は1億人を超えており、こちらも大陸一の規模である。そのため、一人当たりの所得はアフリカ平均と大差ない。のみならず、「4.成長と貧困が併存する大陸(2)」の図4-8で示したように、やや減少したとはいえ、1日2ドル未満の所得水準の人口は80パーセントを超えている。さらに、同じく図4-10で示したように、2000年代後半のインフレ率は15パーセントを超えている。これらの背景に加えて、ナイジェリアの油田は南部の沿岸地域に集中しているため、北東部は政府の支持基盤でありながらも、資源ブームによる活況からは縁遠い。
大陸屈指の経済規模を誇りながら貧困層が多いナイジェリアは、その一方でアフリカのなかでも深刻な汚職で知られている。世界各国の「腐敗度」を測定する「トランスペアレンシー・インターナショナル」によると、2013年度のナイジェリアのランクは177ヵ国中144位で、アフリカでも下位に属する。海外企業と癒着した政府関係者が利益をあげることは日常茶飯事で、例えば2014年3月には、ナイジェリア国営石油(Nigerian National Petroleum Company)が過去19ヵ月にわたって、収益のうち毎月10億ドルを過少申告していたという疑惑が浮上している 。豊富な資源がありながら、その恩恵がごく一部の人間に独占されている様相は、ナイジェリアが抱える「資源の呪い」の一端を示す。
「アラブの春」の舞台となった北アフリカ諸国も、恣意的な支配のもとで貧困や格差が改善されにくい点で、多かれ少なかれ同様である。その例として、「アラブの春」の起点となったチュニジアをとりあげよう。
チュニジアは資源に乏しく、海外からの投資を誘致して市場改革を推し進め、北アフリカでも開放的かつ近代的な国とみなされていた。しかし、民間企業の中枢部分は政府要人と密接に結びつき、その中心にあったベン・アリ大統領(当時)とその近親者は政治権力に基づく縁故主義から膨大な利益をあげ、(マフィアを連想させる)「ファミリー」と呼ばれていた。複数のNGOによる体制転換後の調査によると、亡命したベン・アリとその取り巻きの財産は50億ドルにのぼると報告される。「資源の呪い」が比較的発生しにくいチュニジアでさえ、このような状況にあったことから、他の北アフリカ諸国の状況を推し量ることは容易であろう。
アフリカ・ブームの国際政治経済学 5.テロと政治変動のリスク(2)に続く