「鎌倉殿の13人」の一人・藤九郎は・・・、幕府とともに歩んだ安達一族のルーツ
「鎌倉殿の13人」では、頼朝の伊豆流人時代から仕える藤九郎という人物が初回から主要人物の一人として登場している。この藤九郎、後に安達一族の祖となる人物である。
藤九郎とは何者か
「藤九郎」とは、藤原一族の九男という意味。この時点ではまだ藤原姓のままだったとみられるが、のちに「安達」を名字として安達藤九郎盛長と名乗るようになる。この「安達」が何に由来しているのかについては諸説ある。
そもそも、藤九郎は陸奥国安達郡(現在の福島県)の出で、藤原北家の武士藤原山蔭の子孫といわれ、「安達」は陸奥国安達郡に因むというのが有力。ただし、この説には確証があるわけではない。
信憑性の高い系図集『尊卑分脈』では三河国宝飯郡小野田(現在の愛知県豊橋市賀茂町)の出の小野田三郎兼広が陸奥国安達郡に住み、その子盛長が安達氏を称したというが、これもはっきりしない。
一方、当時武蔵国足立郡の有力武家だった足立遠元の縁戚にあたり、名字を名乗る際に「足立」から漢字を変えて「安達」にしたという説もある。
出自のはっきりしない盛長だが、その妻は源頼朝の乳母比企尼の長女、丹後内侍(たんごのないし)であった。丹後内侍は頼朝との間に子をなした(島津氏の祖忠久)という説もあるなど頼朝と極めて近い女性で、その縁で盛長も頼朝に仕えたとみられる。
鎌倉幕府成立後は上野国守護となり、後に13人の合議制の一人にも登用された。頼朝には伊豆流人時代からずっとつき従い、頼朝没後は出家して蓮西と名乗っている。
盛長の屋敷は、鎌倉市長谷の甘縄神明宮の場所にあったとされ、神社の前には「安達盛長邸址」の石碑が建っているが、近年では扇ガ谷の無量寺谷、現在の鎌倉歴史文化交流館の付近と考えられている。
その後の安達一族
盛長没後も安達一族は鎌倉幕府の要職を歴任、子景盛は秋田城介となって以後代々世襲、また評定衆・引付衆に列するなど幕府の重鎮となった。名執権として知られる第5代執権北条時頼は景盛の孫にあたる(娘松下禅尼の子)など、鎌倉幕府を代表する名家であった。しかし、鎌倉幕府滅亡の際に、安達一族は北条氏一門とともに東勝寺で自害、以後活躍することはなかった。
それでも、安達一族は全国に広がり、現在「安達」は四国と沖縄を除いて各地に広く分布している。その中では比較的山形県と島根県に多く、とくに島根県松江市付近に集中している。