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武田勝頼は家督継承後に最大勢力を達成したのに、どうして武田氏は滅んだのか?

歴ブロ歴史の探求者

カリスマ君主・信玄の死後、わずか10年程で名門・武田氏は滅んでしまいました。

武田信玄の跡を継いだのは、諏訪氏を継いでいた四男・勝頼。

信玄死後、1574年には織田領の東美濃を攻略。さらには、遠江に侵攻し高天神城を陥落させ、浜松城の付近まで迫まりました。この段階で、武田氏の領土は甲斐を中心に、信濃・駿河・飛騨、上野、東美濃の一部を手中に収め、信玄時代よりも拡大していました。

武田信玄の後継者としてその実力を見せつけた勝頼でしたが、1575年の長篠の戦いをキッカケに滅亡の道をたどっていきます。

そこで今回は、武田氏滅亡の理由を長篠の戦いも含め、他の要因も考えてみたいと思います。

武田信玄の後継者選び方の失敗

いつの時代も後継者を選ぶのは難しいものです。

戦国時代の大名たちも自分亡き後の戦国時代の大名たちも自分亡き後の後継者選びには苦労していました。

天下統一した豊臣秀吉でさえ、死後の豊臣家存続はうまくいきませんでした。名将と呼ばれる、武田信玄や上杉謙信も後継者選びに苦慮していた事が分かっています。

武田氏滅亡の原因の一つは、信玄の後継者選びのプロセスにもあります。

信濃の諏訪地方を勢力下におくために諏訪氏から側室を迎え、その間に出来たのが勝頼でした。武田家中では、諏訪氏との婚姻を快く思っていない家臣達も多かったが、勝頼は諏訪氏を継ぐことになり、諏訪四郎勝頼と名乗ります。

兄・義信は今川義元の娘を正室に迎え、戦でも名門に恥じることのない活躍を見せ武田家中でも時期後継者として誰もが認めていました。

このままいけば、武田家は安泰だったかもしれませんが、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると流れが変わります。

今川氏の衰退を感じた、信玄は今川との同盟を破棄し駿河侵攻を目指します。

こうなると、今川氏から嫁いで来た正室と義信の立場が危うくなり、今川派の家臣達にも不穏な空気が流れ始めます。こうして、義信を担ぎ上げる謀反計画が持ち上がり、先代からの重臣たちを中心に義信が粛清されます。

こうした流れで、勝頼が後継者候補になるのですが、実際に確定して甲府に呼び戻された時には義信事件から4年の歳月が流れていました。

武田家の組織再建の失敗

信玄は死の間際、3つの遺言を残しました。

  1. 3年は自分の死を隠すこと
  2. 勝頼の嫡男・信勝が成人したら当主にする事
  3. 風林火山の旗はそれまで使用禁止

信玄の心の内はわかりませんが、勝頼は信勝が成人するまでの中継ぎとして武田家を切り盛りする事になったのです。武田家では重臣たちの合議制を採用しており、勝頼が当主として権限を行使するのはとても難しい状況と言えます。

信玄も後継者をこんな選び方をしていたので、勝頼を心から当主として認められていない風潮が武田家中でもあったと思います。

そうなると、勝頼が家臣達の信頼を勝ち取るには戦しかないのです。

そこで勝頼は信玄にも劣らぬ所を見せようと、織田と徳川領を攻略します。

この戦いでは、信玄の果たせなかった高天神城の攻略を果たし、結果的には武田氏始まって以来の最大領土を保有します。しかし、1575年の長篠の戦いにおいて、織田・徳川連合軍に大敗を喫し、信玄以来の多くの宿将を失います。

長篠の失敗はとても痛い物でした。

しかし、これは武田家中の組織改革をするには良い機会となりました。実際に真田昌幸などの若手も台頭し始めており、これを見極めて組織の若返りを図るチャンスだと思わます。

外交策の失敗

長篠の敗戦後、勝頼は領国再建のため隣国との同盟強化に着手。

北条氏とは信玄時代に甲相同盟が復活し、残るは上杉氏との同盟強化でした。

京都を追放された足利義昭の仲介で武田・上杉の和睦は成立し、武田氏再興の環境は整いつつありました。ところが、1578年に上杉謙信が死去し、上杉家中では景勝VS景虎の後継者争いが起きるとその歯車がまた狂い始めます。

上杉景虎は北条氏からの養子で、実家の北条氏政から勝頼に景虎支援の依頼を受け、上杉家の後継者争いに介入。しかし、上杉景勝が勝利した事で、北条と武田の関係が悪化し最終的には同盟が解消されます。

北条氏との同盟が解消されたタイミングで、徳川家康が北条氏との同盟を結んだことにより、武田氏は駿河国で挟撃を受けます。この対抗策として、上杉氏と同盟を組むが、これには対信長としての機能しか果たしませんでした。

援軍を出さずに国衆の心が離れる

その後は、北条氏と徳川氏との間で小競り合いが続きますが、高天神城の戦いをキッカケに転げ落ちるように勝頼は没落していきます。

徳川家康が高天神城侵攻していると報を受けた勝頼でしたが、織田と北条を警戒して援軍を送らずに高天神城を全滅させてしまいます。この事で、駿河・遠江の国衆を敵に回し、最後も諏訪まで来ていながら高遠城に援軍も出さずに、ついに家臣達も愛想をつかします。

そして、1582年の信玄の娘婿・木曽義昌が織田方に離反した事により武田家滅亡が決定的になりました。この時、大きな城郭【新府城】を築城していましたが放棄し、小山田信茂の誘いで岩殿城に行くも、すでに織田信長に通じており行く当てを無くした勝頼は、天目山で自刃しました。

武田勝頼は戦場で武将としては優れていました。

しかし、普段は自分のいう事を聞く者だけを側近として、そうでない者は遠ざけていたと言います。これでは、統治者として家臣や国衆を引っ張っていくのは難しいと感じます。

こうした環境を作ったのは勝頼自身もありますが、信玄の後継者を選ぶプロセスがこうした空気を作ったと思います。

1575年の長篠の戦いから、滅亡の1582年まで8年の時間的猶予がありました。

その間に、勝頼がしっかりと組織改革を行ったうえで外交の失敗がなければ、武田家中を立て直すことができたかもしれません。信玄も、義信を排除した時点できちんと勝頼に帝王学を学ばせておけばこのような結果とならなかったのではと感じます。

歴史の探求者

歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。楽しく分かりやすく歴史を紹介していければと思います。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。

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