多発するアジア人差別(3)日系三世女性の見た、故郷「アメリカ」
昼間にミッドタウンを歩いていて、突然殴る蹴るの暴行を受けた女性。地下鉄車両でいざこざとなり、首を締められて意識不明となった男性・・・。ニューヨークでは、アジア系の人々をターゲットにしたヘイトクライム(憎悪犯罪)や嫌がらせのニュースが後を絶たない。
アジア系の移民がアメリカに到着して約150年が経つとされるが、依然差別も多い。過去には、中国系移民排斥法や日系人強制収容、昨年以降は新型コロナのパンデミックによるアジアへのヘイト感情が高まっている。
筆者が報道で知る限り、被害に遭っているのは男性は年齢問わず、女性は年配の方が特に多いようだ。アジア系の若者に話を聞くと、「高齢の母親が心配」「以前のように両親に外を歩いてほしくない」といった声が聞こえてくる。またある女性は「私はここで生まれ育ったが、人生で初めてハンマーを持参して歩いている」と語った。
本稿では、この国で生まれ育った日系アメリカ人三世に話を聞いた。ニューヨーク在住のジュリー・アヅマ(Julie Azuma)さんは70年代後半から80年代にかけて、アジア系の公民権運動に参加していた。彼女の目を通した、故郷「アメリカ」とは?
リドレス運動で日系人同士の強い絆ができた
「あの事件をきっかけに、アジア系の命は大切ではないのか、価値がないのかと、民族の垣根を超え全米中のアジア系が初めて一体となって立ち上がりました」
アヅマさんはそう言いながら、80年代に起こったアジア系の公民権運動「ヴィンセント・チン事件」の記憶をたぐった。
当時、発生現場のミシガン州デトロイト周辺で最初の抗議運動が起き、全米中に波及。ニューヨークでも若者を中心に人々が立ち上がった。デトロイトでの動きを注視しながら各地で抗議集会が開かれ、皆が一致団結して正義のために闘った。
「その時、すでにニューヨークエリアには強い絆がありました」
アヅマさんはチンさんの抗議運動に先駆け、別の社会運動に参加していた。70年代後半から活発化したリドレス運動だ。
- リドレス運動: 全米の日系アメリカ人が米政府に対して、第二次世界大戦下で強制収容所(Concentration camp、Internment camps)に入れられた約12万人の日系人への補償や謝罪を求めた運動。その結果、市民自由法(Civil Liberties Act of 1988)がレーガン政権下の88年に成立し、政府が日系人に対して公式謝罪した。
彼女をリドレス運動へ突き動かしたものは、自分が生まれる前に家族が入れられていた強制収容所のことを知りたいという欲求だ。その背景には日系人がこの国で歩いてきた過去の複雑な心情が渦巻いていた。
- 日系アメリカ人は1942年、当時のフランクリン・ルーズベルト大統領が発令した大統領令9066号(Executive Order 9066)により、強制収容所に移動を強いられた。
もしあなたの家族が何も悪いことをしていないのに、ある日突然、大きな権力に連れ去られ、収容所に入れられたら、どう思いますか?
日本人だからというそれだけの理由で、すべての財産と自由を奪われ、塀の中での生活を強要されたら、あなたどう思いますか?
戦後、強制収容所の話題を家庭に持ち出すのは禁句だった。「収容所に入れられた祖父母(一世)、両親や親戚(二世)は誰も当時のことを語ろうとしませんでした。辛い日々はひと時も思い出したくない、もう過去のことを話したくないということでした」とアヅマさん。「子どもにとっても、聞いちゃいけない触れてはいけないものでした」。
よってアヅマさんのような戦後生まれの人は、日系人であっても強制収容所の「実態」や悲惨さを知らずに育った。「(知らなすぎて)夏のキャンプや楽しげなパーティーくらいの認識でした。誰も話すことを拒否している以上、知る手段がありませんでした。ティーンになったある日、図書館で真実を知るまでは」。
70年代にリドレス運動が活発化したとき、二世より上の世代は「この件には関わりたくない」と運動への介入を拒否した。一方、アヅマさんのような三世以降の若い世代は、家族に何が起こったのかを知りたいと、積極的に運動に関わった。
ニューヨークでも日系人同士が集結し、頻繁にミーティングを開いては語り合ったり必要な人を紹介し合った。ミーティングを開く利点の1つは、経験者から直接体験談を聞く貴重な機会があったこと。そうして、人同士が繋がり知識が増えていった。
「他都市に比べてニューヨークは、リベラルで独立精神が高い個人主義者、アーティストやパフォーマータイプの人が多く、熱いムーブメント、日系人同士の強い絆が生まれました。年齢問わず在米歴の浅い人や白人層も参加するようになり、素晴らしいコミュニティに成長しました。そして我々はついに、政府からの謝罪を勝ち取ることができたのです」
- 太平洋戦争が終わり、カリフォルニア州トゥーリーレイク強制収容所が閉鎖される時に撮影したとされるもの。
日系アメリカ人としての経験談
アヅマさんはイリノイ州シカゴで生まれ、ミズーリ州セントルイスの大学に通った。そこは多くの住民が白人で、アジア人や黒人はほとんどいない街だった。アメリカで育った者として、これまで受けた差別はあるかと聞いたところ、このような答えが返ってきた。
「直接的な人種差別(レイシズム)を受けたことはありません。ただ私が思うのは、ペイトロナイジング(Patronizing)というものはあるということです」
ペイトロナイジングとは、軽蔑的で見下す態度、相手が重要でない人物として扱うことを指し、目に見えない差別のことだ。
「狭い歩道を歩いている時、向かいから来る人は私がよけることを期待してよけてくれません。私は礼儀正しくと両親に教えられて育ったので、道で誰かにぶつかることはありませんが、そんな私はいつも、人をよけながらくねくねと歩くことを余儀なくされています」
「また私はよくこんな質問をされます。『あなたはどこから来ましたか?』と。その言葉の裏には『両親はどちら出身ですか?』という意味が隠れているのかもしれませんが、私も私の母もアメリカで生まれました。また90歳になる女性の知人がいます。彼女の先祖は1894年に移民してきました。そんな彼女でも『国から出て行け』と言われたことがあります。私の家族も知人の家族も、世紀をまたいでこの国に住んでいます。それでも日系人は、アメリカに近年やって来た人からよそ者のような扱いを受けることがあります」
アヅマさんは、アジア人女性の扱われ方についても疑問を呈する。自身の経験を通して、女性は恒常的に平等に扱われていないと感じてきた。
「ティーンのころ、タクシーの運転手など知らない男性が私に突然、ベトナム戦争中に付き合った女性の話をしだしたり、アジア諸国の女性と関係を持ったとか昔の彼女のことを話しだす人がいました。これらは婉曲的にアジア人女性を1人の人間としてではなく、性的オブジェクト(性的満足のためにみなされる対象物)や人間以下として見ていることを表しています。アジア人女性の価値はその程度だから、取り扱いがぞんざいになるのです」
アヅマさんはレイシズム(人種差別)のほか、ホワイト・プリビレッジ(白人男性の優遇)についても、よく考えることがある。「日本で育てばおそらく自分とは違う考え方を持っているでしょうが、多くの日系人はこの国のメインストリームより下にいると感じています。またある日、私は気づきました。アメリカに住む日本人(移民一世)は、私たち日系人が置かれている立場と無縁のようだと。彼らは人種差別や偏見に気づくことがそれほどないようです」。
アジア系市長はこの街を救えるか?
ところでニューヨークでは今年の6月、次期市長選が迫っており、大統領選にも出馬したアンドリュー・ヤン(Andrew Yang)氏が市長選に出馬している。
アジア系のヤン氏が市長に選ばれたら、ニューヨークはより良い街に生まれ変わることができるだろうか?
「市長といえば、数年前に台湾系アメリカ人の有能で厚い信頼を寄せられていた市会計監査役、ジョン・リウ(John Liu)氏が有力候補だったのですが、何かが起こりデ・ブラシオ氏が選ばれました」とアヅマさん。
一方ヤン氏だが、彼女は2年前にアジア系アメリカ人弁護士協会の会合で、彼に一度会ったことがあると言う。その上でこのように語った。
「私はヤン氏が市長として必ずしも適任者とは思いませんし、アジア系の住民は人種に限らず有能な人を選びたいと思っているはず。その一方で私はヤン氏の政治への情熱は買っています。大統領選へヤン氏が出馬して以来、アメリカ全体でのアジア系の存在感が増しているのを実感するので、サポートしたい気持ちもあります。もしニューヨーク市でアジア系の市長が誕生するなら、グローバルな政治との良い関係性に繋がっていくでしょう」
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(Interview and text by Kasumi Abe)無断転載禁止