「カジノ解禁論議の前に賭博罪がこのままでいいのか」に反論する
甲南大学法科大学院の園田寿教授が以下のようなコラムを上程しています。
カジノ解禁論議の前に「賭博罪がこのままでいいのか」を考える
http://bylines.news.yahoo.co.jp/sonodahisashi/20140104-00031077/
都道府県や市町村主催で地方競馬・競輪が実施されることになったのが昭和23年(1948年)のことで、以来、パチンコ店や公営ギャンブルが国民に広くギャンブルの機会を提供しています。ギャンブル産業は、年間2~30兆円規模とも言われ、賭博罪の規定が「財産上の損害」や「勤労の美風」を守っていると言うことには虚しさがともないます。 [...]
うーんと、件のカジノ法制案などを見ていると法務畑の専門家から上記のような感想が出て来るのは無理もない感もありますが、緻密な制度論の話をすれば、上記の園田氏の主張は公営賭博やパチンコ(もしくは「遊技」)の制度的定義を完全にミスリードしたものであるといえます。確かに我が国には100近くの公営競技場と1万2千軒のパチンコ店と1万5千を超える宝くじ売場が存在します。ただ、我が国ではそれらが無秩序に存在しているのではなく、一定の法的制約の中で存在していることを大前提として論議を始めなければなりません。
公営競技や宝くじは、我が国の刑法が禁ずる賭博(もしくは富くじ)にあたるものです。しかし、これら各公営賭博には競馬法、モーターボート競走法など各論拠法によって、国務大臣が指定する「公たる主体」が「公たる目的」をもって「公たる監督の下で」運営を行なうものとして合法としています。逆に言えば、それら各種制限ゆえに、刑法第185条(賭博罪)が保護法益としている「財産上の損害」や「勤労の美風」は依然として守られているというのが、現在の公営賭博の存在に対する制度的な整理です。
一方、民業として市井に存在しているパチンコ業は、風俗営業法によって規制される業態です。風俗営業法はパチンコ店に対して、設置する遊技機の性能(即ち「ゲーム性」)、店舗運営のあり方など、それら営業行為が著しく客の射幸心をそそる事の無いように様々な規制を設けています。これら様々な規制が有るが故に、パチンコ店は刑法第185条が後段にて規程する「賭博罪の例外規定(一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるときは、この限りでない)」に相当するものとして管理されている。ゆえに刑法第185条(賭博罪)が保護法益としている「財産上の損害」や「勤労の美風」は依然として守られているというのが、これまたパチンコの存在に対する制度的な整理です。
繰り返しになりますが、より強い射幸性を持つ「賭博業」に関しては「公営」というより強い制限を、民業として認められているパチンコに関しては「ゲーム性とその営業手法」に制限を付すことによって、刑法第185条の規程する保護法益が守られているのであって、「これらが存在し、すでに国民に広くギャンブルの機会を提供している」→「賭博罪の保護法益はすでに形骸化している」→「賭博の非犯罪化すべき」とする論法はいささか乱暴です。園田氏の主張する「違法な賭博経営を取り締まるという方向で、暴力団や八百長組織などの反社会的集団対策の一環として賭博罪を構成し直す」という論が通ってしまえば、現在、公営として定義されている様々な賭博形態がわが国において民業として展開しうるという話になりますし、同様に現在は法によって射幸性が制限されているパチンコ業の制限を外し「賭博化」する事もOKという話になってしまう。そんなモノが社会的に許容されるとは、到底思えません。
ただね、ここから先は以前の繰り返しになるので詳細は述べませんが、現在のカジノ合法化論というのはこういう法曹側からの意見が出てくるのは無理もないような構成となっておりまして、私はカジノ業界側でそのリスクを警告し続けてきた立場でもあります。こういう論が出てきてしまえば、それこそ件のカジノ合法化自体の論議が危うくなってしまうワケで「慎むべきだ」と度毎にお伝えしてきているのですけれどね。。ま、この辺は完全に一部のカジノ推進派側にすべての責任があるといって良いでしょう。その辺に関しては、詳しくは下記リンク先をご参照下さい。
カジノ合法化論と共に、何やらパチンコ新法の話が蠢きだした
http://blog.livedoor.jp/takashikiso_casino/archives/7996814.html