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前田利家が兄を差し置いて、前田家の家督を継いだ理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
前田利家像。(写真:イメージマート)

 現在、一族経営の会社の場合であっても、長男ではなく次男以下が経営を引き継ぐ場合があるだろう。それは前田利家も同じことで、兄を差し置いて、前田家の家督を継いだ。その理由について、考えることにしよう。

 前田利家が荒子城(愛知県名古屋市)主の利春の子として誕生したのは、天文7年(1538)のことである。利家には、利久、利玄、安勝という3人の兄がいた。

 永禄3年(1560)7月、父の利春が亡くなると、長男の利久が前田家の家督を継いだ。利久は前田家の長男だったので、家督を継いだのは当然のことだろう。

 当時の前田家は荒子城を居城とし、荒子衆という家臣団を編成していた。そして、城下には譜代の家臣が集住していたので、それなりの勢力を誇っていた。

 ところが、利久には後継者となる男子がいなかったので、弟の安勝の娘を養女として迎え、滝川益氏の子の利太(前田慶次)を婿に迎えようと考えた。将来的に、利太に前田家を継がせようと考えたのだ。

 この話を聞いた信長は驚き、前田家を他家の者に譲ることは良くないと述べた。代わりの案として信長が示したのは、利家を前田家の家督に据えることだった。

 利久はこの案を容易に受け入れず、利久の妻も激しく抵抗した。配下の奥村永福も、城の明け渡しに応じなかった。当初、前田家の総意としては、利家の家督相続を拒否していたが、やがて受け入れざるを得なくなったのである。

 利家が晴れて荒子城主となったのは、永禄12年(1569)のことである。その後、利久は出家して「蔵人入道」と称し、天正11年(1583)頃から利家に仕えたという。

 もともと利家は300貫の知行が与えられていたので、家督の相続により計2450貫を領することになった。これを石高に換算すると、約4000石になるという。まだまだ規模としては、大身とはいえなかった。

 信長は、なぜいったん放逐した利家に前田家の家督を継がせたのだろうか。利久は凡庸な人物だったといわれており、家督を継ぐ器でないと信長は考えたのだろう。利家の兄の安勝もまた、信長の期待に応えられるような人物ではなかった(利玄は早逝)。

 むしろ、利家は戦場で数々の軍功を挙げ、「槍の又左」として人々から恐れられていた。信長は粗削りながらも、将来性のある利家を買っていたのではないだろうか。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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