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【光る君へ】藤原伊周・隆家兄弟の左遷。当時の配流先はどう決まったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
流罪先の一つだった隠岐島。(提供:イメージマート)

 長徳の変によって、藤原伊周・隆家兄弟は左遷のような形で地方に送られた。ところで、流罪の配流先はどう決まっていたのか、考えることにしたい。

 流罪の配流先については、近流、中流、遠流の3つの基準に分かれていたが、当初は具体的な国名は決まっていなかった。神亀元年(724)になって、具体的に配流先が次のように定められた。

①近流―越前国、安芸国。
②中流―諏訪国、伊予国。
③遠流―伊豆国、安房国、常陸国、佐渡国、隠岐国、土佐国。

 諏訪国は養老5年(721)に設置されたが、天平3年(731)に信濃国に併合された。このように配流先が決まったものの、一般的には単なる例示と考えられており、必ずしも実例とは一致しないようである。

 ちなみに、京都市内から福井市までは約120キロメートル、同じく広島市までは約300キロメートルの距離があるが、同じ近流にしては距離が違い過ぎる。中流や遠流も同様に距離に差があるので、純粋に距離を測った基準とは言えないようだ。

 康保4年(967)に施行された『延喜式』には、3段階(近流、中流、遠流)に分かれていた配流先について、次のように規定されている。

①近流―越前国、安芸国。
②中流―信濃国、伊予国。
③遠流―伊豆国、安房国、常陸国、佐渡国、隠岐国、土佐国。

 実は国名のあとに「等」と書かれているので、やはりあくまで例示の一つに過ぎなかったようだ。

 たとえば、『中右記』嘉保元年(1094)8月17日条によると、阿波国が近流の国に加えられているごときである。実際、この基準に挙がっていない、下野国、淡路国などの諸国に配流される者もいた。

 ここで注意しなくてはならないのは、われわれが「島流し」と呼ぶものの、必ずしも流刑地が島ではなかったことである。隠岐国、佐渡国、淡路国以外は、陸続きの場所にある。

 伊豆七島などに流人が流され、文字どおり「島流し」と称されるようになるのは、おおむね江戸時代以降のことである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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