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【光る君へ】実は阿吽の呼吸で、関係が良好だったと思われる一条天皇と藤原道長

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所 承明門。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道長が一条天皇に辞職を申し出たが、それは許可されなかった。一条天皇が道長を信頼、そして頼りにしていたからだろう。実は、2人は阿吽の呼吸で、関係が良好だったと思われるので、その辺りを考えることにしよう。

 長徳4年(998)、道長は重い腰痛を患ったので職務の遂行が困難と考え、一条天皇に内覧を辞めたいと申し出た。道長は、出家を考えるまで思いつめていた。むろん、一条天皇は道長の辞任を認めなかった。

 当時、災害や疫病が流行っており、困難な情勢にあった。ここで道長に辞められては、非常に困るからである。しかし、2人には厚い信頼関係があったように思える。

 長徳2年(996)1月、長徳の変が勃発した。伊周・隆家の従者が花山法皇に矢を放ち、衣の袖を射抜いた。矢は花山法皇に当たらなかったが、一条天皇は事件を知って激怒し、2人を左遷することにした。

 同年4月の除目(人事)により、内大臣だった伊周を大宰権帥に、中納言だった隆家を出雲権守にそれぞれ降格したのである。一条天皇の強い決断だった。

 翌年3月、道長の姉の詮子が重篤になったこともあり、伊周・隆家の大赦を行うことが検討された。一条天皇は陣定(公卿の会議)を催すと、まず2人を大赦の対象にすべきかを尋ねた。

 仮に許すとはいえ、そこには条件があった。罪を許しても配所にとどめるべきか、帰京を許すかということである。この点を踏まえて、公卿らは議論した。

 まず、2人を大赦の対象にするということは、満場一致で賛成となった。ところが、帰京を許すかについては、以下のとおり意見が分かれた。

 ①法律家に確認すべきである、②先例を確認すべきである、③一条天皇の判断に任せる、④配所にとどめるべきであるの4つである。2人を帰京させることについては、慎重だったようだ。

 道長は公卿らの意見を取りまとめて、一条天皇もとに参上した。通常、陣定で出た意見は、記録することになっていた。しかし、今回については、なぜか意見が記録されることがなかった。

 一説によると、道長と一条天皇は陣定で議論を行ったものの、すでに2人を帰京させることで合意していたという。もちろん、それには大きな理由があった。

 伊周は道長の政敵だったが、伊周は定子(一条天皇の中宮)の兄でもあったので、これ以上揉めても意味がないと考えたのだろう。もう十分に伊周は懲りたはずである。

 むしろ、一条天皇との関係を重視し、その意向を踏まえて2人を許すことが得策だった。ただ、無条件で許すのは憚られるので、いちおう先例に従うというのが、2人の帰京を許す根拠となった。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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