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南北朝時代から席巻した、倭寇の目的とは何だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 昨今でも我が国と中国、韓国との関係は難しいものであるが、それは南北朝時代も同じだった。ここでは一例として、倭寇を取り上げることにしよう。倭寇とは朝鮮や中国大陸で、略奪行為や密貿易を行った海賊集団のことである。

 観応元年(1350)2月、日本人の船団(倭寇)が朝鮮の固城、竹抹、巨済を襲撃した。これが倭寇の活動の初見である。高麗は沿岸の警備を固めたが、以後も倭寇による襲来は収まらなかった。

 同年4月以降、再び倭寇は南原、求礼、霊光、長興、柴燕・三木の両島などを数十から百数十の船団で襲った(『高麗史』)。以降、朝鮮の記録に「倭寇」という言葉が頻出し、定着したのである。

 朝鮮半島を席巻した倭寇の目的は、米と人の略奪だった。穀倉地帯である朝鮮半島南部の揚広、全羅、慶尚の三道からは、年貢の米を積んだ船が北上していた。この船を狙ったのが倭寇だ。

 倭寇は米を積んだ船を襲撃するだけでなく、さらに米を備蓄していた倉庫から収奪を行った。加えて、倭寇は朝鮮半島の沿岸部に上陸すると、農作業の担い手である農民たちを捕縛すると、次々と日本に連行したのである。日本人だけでは地理に不案内だろうから、朝鮮人の関与はあったと推測される。

 観応3年(1354)以降、倭寇は次々と米を積んだ船を襲い略奪した。延文5年(1560)には喬桐から江華を席巻し、米4万石余を奪ったうえに領民3百人を虐殺したという。

 高麗では沿岸の防備を固めるほか、沿岸部の倉庫を内陸部に移し、船による輸送を陸送に改めるなど対策した(『高麗史』)。とはいえ、これは消極的な対処法にすぎず、倭寇を根絶やしにすることはできなかった。

 明の建国が成った翌年の応安2年(1369)2月、倭寇は山東付近に上陸すると、複数の男女を連れ去った。明ではただちに沿岸警備を強化するなどしたが、倭寇はたびたび山東に姿をあらわし、略奪行為を繰り返した(『皇朝実録』)。

 翌応安3年(1370)以降、倭寇は山東だけではなく、福建なども襲撃するようになり、略奪行為を繰り返した。倭寇の活動は活発で、明には倭寇を撃退するだけの余裕や軍事力がなかったようだ。

 倭寇の戦闘能力は高く、明や朝鮮の人々は恐れをなした。倭寇は人や米を奪うだけでなく、家々を焼くなどしたので、人々の生活は困窮するようになった。これでは、安心して農作業などに従事できなかったに違いない。

 明では倭寇が出没する沿岸の警備を固めたほか、倭寇を生け捕りにしたり、首を取った者に賞金を与えるなどした。やがて、賞金の額は増額され、役人については昇格が約束された。

 いかに、明が倭寇対策に躍起だったかがわかるだろう。さらに沿岸各地には城が築かれ、機動性に優れた船も配備されるようになった。こうして、明による倭寇対策は進められたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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