政治に深く関わり、若い当主を支えた中世の女性3人
女性が政治の世界に進出することが増えたが、まだまだ先進国の中では少ないほうだといわれている。しかし、我が国の中世には政治に深く関わり、若い当主を支えた女性がいたので、そのうち3人を紹介することにしよう。
◎北条政子
北条政子は、源頼朝の妻だった。頼朝の死後、子の頼家が2代将軍に就任した。頼家が安達景盛の留守を狙って、その妻を奪い取る事件があったが、事態を収拾したのは政子だった。
建仁3年(1203)、頼家が危篤になると、その後継者をめぐって、北条時政と比企能員が対立した。その際、比企一族の討伐を命じたのも、頼家の伊豆修禅寺への幽閉を命じたのも政子だった。乱が無事に終息したのは、政子の手腕が大きかった。
ほかにも例がある。頼家の代わりに実朝が将軍になって以後も、政子は諸国地頭分の狩猟を禁止し、焼失した鶴岡八幡宮の再建の延期の決定をした。幼い将軍の代わりに、政子が意思決定を行ったのである。
◎洞松院尼
洞松院尼は、赤松政則の妻だった。政則の死後、播磨など3ヵ国の守護に就任した養子の義村を支えた。洞松院尼は義村の後見として、印判状を発給した。
それは、あくまで中継ぎ的な役割であって、義村が元服するまでの期限付きだった。洞松院尼の印は黒印で、印文は「つほね(局)」である。
永正4年(1507)に細川政元が亡くなると、養子の澄元と高国が争った。洞松院尼が支援したのは、澄元である。しかし、戦いに勝利したのは、高国のほうだった。洞松院尼は自ら高国の陣所を訪れ、講和を結ぶという政治力を発揮したのである。
◎寿桂尼
寿桂尼は、今川氏親の妻だった。寿桂尼は氏親が病に罹って以降、政治に関与していた。武家家法の『今川仮名目録』の制定に際しては、寿桂尼が関わったという説がある。
氏親の死後、子の氏輝が家督を継ぐと、寿桂尼は「歸(とつぐ)」の印判状を発給して、若い当主を支えた。この点は、先述した洞松院尼と同じである。
氏輝の死後、今川家の家督をめぐって、義元(寿桂尼の子)と玄広恵探(側室・福島正成の子)が争った。
寿桂尼は我が子の義元を支持し、玄広恵探との戦いに勝利した(花倉の乱)。こうして今川氏は全盛期を迎えたが、義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れ、滅亡への道を進んだのである。
※花倉の乱における寿桂尼の立場、義元が寿桂尼の子であったかについては諸説あります。