現在の新日本プロレスに残る3つの「猪木遺産」とは?
アントニオ猪木の逝去を受けて、新日本プロレスは今月10日、新年の東京ドーム大会を追悼大会にすると発表した。新日本プロレスが猪木によって創設されたことは変わらない事実である一方で、すでに猪木から「自立」しているのも事実。女性を中心に新しいファン層を獲得しているのは素晴らしいと思う。ファンの若返りが進む今、もしかしたら猪木にピンと来ない人もいるかもしれない。そこで、猪木が作ったもので、今も新日本プロレスに残る、いわゆる、3つの「猪木遺産」を紹介しよう。
1. 道場
猪木が作ったもので今も残るものといえば、まずは道場が挙げられる。現在も選手が練習場として利用する世田谷区野毛の「新日本プロレス道場」は、元々は猪木の自宅を改築したものだ。完成は1972年1月29日。3月の旗揚げ戦より先に道場を作ったことは、何よりも練習を重視するという猪木の信念が色濃く表れている。建物自体は改築を繰り返しているものの、所在地はまったく変わらず、リングの配置も当時とほぼ同じだ。藤波辰爾や武藤敬司など新日本プロレスで育った選手の多くが長く現役を続けられるのは、道場の存在も大きく影響していると思う。
2. IWGP
そして、次に挙げたいのがIWGPである。ファンにも広く認知されている新日本プロレスの看板タイトルは元々、1980年に「世界中に存在する王座を統一し、真の世界一を決めよう」というアントニオ猪木の提唱によって生まれたものであった。海外からチャンピオンベルトを持ち帰るという従来の方法ではなく、自作のベルトの価値を高めたのは、初代王者猪木を筆頭とする歴代王者の功績だ。時代の変化によって名称やデザインが変わり、タイトルの数は増えたとはいえ、団体の中での最高権威という位置づけとIWGPの4文字に関しては、当時から一貫して変わっていない。
3. 黒タイツ
最後はプロレスラーが身に付ける、黒い三角ショートタイツである。猪木はオレンジや茶色を履いたのち、70年代中期から「技が引き締まって見える」という黒いショートタイツを愛用した。最近のファンは無地の黒いタイツを若手選手のユニフォームと認識しているかもしれないが、新日本プロレスは昔から他団体に比べると黒いタイツの割合は高く、その源流は明らかに猪木にある。現在は華やかなコスチュームが主流だが、若手選手3人に加えて柴田勝頼と成田蓮が伝統の黒いタイツを受け継いでいる。
さらに加えると、1989年に東京ドームで最初のプロレス興行の開催を決断したのも猪木だった。当時はプロレス人気が低迷しており、社内にはリスクを回避する反対意見もあったと聞くが、猪木はソ連(現ロシア)からレスラーを招聘して決行。初めて社会主義国家の選手をプロのリングに上げることで世間を振り向かせたのである。あのときから毎年欠かさず、新日本プロレスの東京ドーム興行が続いていることを考えると、やはり、猪木が踏み出した最初の一足が「道」となっているのだ。猪木が生前に「環状線の向こう側」と表現した無関心層にまでプロレスを届けて、大会場の客席をいっぱいにする。これこそが「猪木遺産」を相続する団体の宿命であり、天国の創設者に対するいちばんの追悼になるのではないだろうか。
※文中敬称略