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活動期間3年、平成初期に生まれた「もうひとつのUWF」について考えてみる

清野茂樹実況アナウンサー
ケンドー、ドス・カラス、グラン浜田のトリオ(写真:平工幸雄/アフロ)

2024年はUWF(別名ユニバーサルプロレス)が誕生して40周年にあたる。元々は新日本プロレスの営業本部長だった新間寿が立ち上げたプロレス団体だが、実はもうひとつ、名称は同じでまったく異なる「ユニバーサルプロレス」が存在した。消滅してから31年、今ではほとんど語られることなくなった「もうひとつのUWF」について振り返ってみたい。

テレビ時代の終わりに生まれた

前田日明が率いたUWFとは別のユニバーサルプロレスが旗揚げしたのは、1990年のこと。当時のプロレス界は、新日本プロレスと全日本プロレスの老舗がゴールデンタイムから姿を消した一方で、テレビ中継のないUWFが人気を集めていた。つまり、「テレビがつかない団体はやっていけない」という従来の常識が変わり、ファンは雑誌で情報を入手して、会場に足を運んでプロレスをライブで楽しむようになったのだ。そんな中で国内6番目の団体として生まれたのが、グラン浜田をエースにしたユニバーサルプロレス(略称UWF)であった。

ルチャ・リブレを直輸入

結果的に団体はわずか3年で消滅してしまうのだが、実はプロレス界に与えた影響は小さくない。筆者が考える3点を順に述べよう。まずは、ルチャ・リブレを輸入したことだ。それまでの日本におけるメキシカンの扱いはマスカラス兄弟を除いて前座に過ぎず、ファンはルチャ・リブレの魅力をほとんど知らなかった。ユニバーサルは旗揚げシリーズにリスマルク、ペロ・アグアヨ、ケンドーなどルチャ・ドール10人を招聘し、メキシコルールの試合を披露した。こうしてルチャ・リブレを丸々見せる興行は国内で初めてであった。この流れが現在、新日本プロレスが年に一度開催する「FANTASTICA MANIA」に続くのである。

女子プロレスを認知させる

2つ目の影響は、女子プロレスを男性ファンに認知させた点だ。というのも、当時の女子プロレスファンは女性が中心で、その流れを変えたのはユニバーサルが試合の合間に提供した女子プロレスであった。ルチャ・リブレ目的に来た男性客の間で、まだ無名だったアジャ・コングの人気が爆発。彼女をきっかけに男性ファンが女子プロレスの会場に押しかけるようになったのだ。男性ファンを巻き込んだ女子プロレスは、この数年後に団体対抗戦を売りにしてブームとなり、東京ドームの興行に辿り着くことは周知の事実だが、その発端となったのはユニバーサルの存在がある。

多くの人材を輩出

そして3つ目の影響は、のちに多くの人材を輩出したことだ。当時23歳だったウルティモ・ドラゴンは闘龍門を作ったほか、ザ・グレート・サスケ、TAKAみちのく、スペル・デルフィンなどユニバーサルでデビューしたレスラーは「一国一城」の主になったケースが目立つ。また、邪道と外道、ディック東郷、カズ・ハヤシ、新崎人生、MEN’Sテイオーらユニバーサル出身者に教えを受けたレスラーを数えればきりがない。つまり、オカダ・カズチカや拳王もルーツを辿れば、ここに行き着くわけで、令和のプロレスはユニバーサルなくしては存在しないと言っても過言ではない。

前述した通り、ユニバーサルプロレスは早々に経営難に陥り、1993年8月に活動を休止する。日本の総合格闘技は前田日明や佐山サトルのUWFから始まることはよく知られるが、プロレスに関しては、こちらのUWFが基盤になっていることがおわかりだろうか。平成以降、日本のプロレス・格闘技の潮流を作ったのは2つの「UWF」なのである。

※文中敬称略

実況アナウンサー

実況アナウンサー。1973年神戸市生まれ。プロレス、総合格闘技、大相撲などで活躍。2015年にはアナウンス史上初めて、新日本プロレス、WWE、UFCの世界3大メジャー団体の実況を制覇。また、ラジオ日本で放送中のレギュラー番組「真夜中のハーリー&レイス」では、アントニオ猪木を筆頭に600人以上にインタビューしている。「コブラツイストに愛をこめて」「1000のプロレスレコードを持つ男」「もえプロ♡」シリーズなどプロレスに関する著作も多い。2018年には早稲田大学大学院でジャーナリズム修士号を取得。

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