かつて「虎ハンター」と呼ばれて日本中から憎まれた男、プロレスラー小林邦昭が残した功績とは?
先月、元プロレスラーの小林邦昭が68歳でこの世を去った。新日本プロレス旗揚げの年に入門した小林は、同団体の創生期を知る数少ないレスラーであった。テレビ視聴率20%超えの時代に活躍した小林を知る50代以上のプロレスファン、そして知らない世代に向けて、故人が残した功績を改めて記しておきたい。
タイガーマスクの敵役
小林邦昭の功績で最初に挙げられるのは、やはり、初代タイガーマスク(佐山サトル)の敵役である。当時、タイガーの相手はヨーロッパやメキシコのレスラーがほとんどで、日本人ライバルの登場は新鮮さがあった。しかも、覆面を引き裂く反則行為のインパクトは絶大で、“虎ハンター”の異名もこれに由来する。両者のシングルマッチは7度、抗争期間は1982年10月からわずか10か月しかなかったのが信じられないほど、密度の濃い試合でファンを魅了したのだ。なお、小林は全日本プロレスで2代目タイガーマスク(三沢光晴)とも抗争している。
いくつもの先駆者の顔
さて、小林は全日本でNWAインターナショナルジュニア王座と後継の世界ジュニア王座を、さらに新日本ではIWGPジュニア王座を獲得している。今とは比べようもないほど団体間の行き来が困難だった時代、現存するジュニアヘビー級の頂点タイトルを2つ手に入れたのは小林が初めてである。また、今ではスタンダードとなった試合コスチュームにパンタロンを国内で最初に履いたこと、日本人で最初のフィッシャーマンズ・スープレックスの使い手であったことなど、先駆者としての顔をいくつも持っているのだ。
後輩を引き上げる
そして、平成以降で考えれば、反選手会同盟(のちに平成維震軍)に加わったことが大きい。1992年、すでに闘魂三銃士らの活躍で明るいムードに傾きかけていた新日本プロレスにおいて、空手道場の誠心会館との血なまぐさい決闘でファンの目を惹きつけたことはもっと評価されるべきだ。しかも、当時はまだプロレスを知らなかった空手家、斉藤彰俊(当時)を光らせたのは、間違いなく小林の力だと断言できる。他にも馳浩の国内デビュー戦、獣神ライガー(当時)のデビュー戦の相手を務めるなど、後輩レスラーを引き上げた功績は忘れてはならない。
幅広く愛された人柄
小林は2000年に44歳で現役を引退、その後は亡くなるまで新日本プロレス道場の管理人として団体に貢献した。多くのレスラーや外国人留学生の口から小林への感謝が語られており、小林がいなければ、プロレスを続けていなかったというレスラーもいたかもしれない。また、2020年に開催された新日本プロレスの創業者アントニオ猪木を囲むOB会は、小林が音頭を取ったから実現できたとの証言もある。細やかな気配りと温厚な性格で幅広く愛された小林邦昭は、人間関係が複雑なプロレス界において調整役ができる数少ない存在でもあった。
以上が筆者の考える功績である。これで、小林邦昭を含めて、ダイナマイト・キッド、ブラックタイガーと、初代タイガーマスクの三大ライバルはすべて天に召されてしまったわけで、時間の経過を痛感せざるを得ない。ちょうど現在、新日本プロレスではジュニアヘビー級のリーグ戦が展開中だが、彼らが残した名勝負をこれからも現役のレスラーたちが受け継いでくれることを願うばかりである。
※文中敬称略