大河『青天を衝け』の冒頭に家康が出てきた真の意味 「大事なときに日本にいなかった」渋沢栄一の真骨頂
幕末ものの冒頭に徳川家康が登場した衝撃
大河ドラマ『青天を衝け』の第一話は徳川家康から始まった。
拍子木が鳴ったあと「こんばんは徳川家康です。今日はまず日本の歴史です」と家康本人が話しだして、たまげてしまった。
大権現様と称された家康公が、日本の歴史について語ったのを見たのは生まれて初めてである。
戦乱の世を平らげたのは「私」であり、徳川の世を作りました、島原の乱あとは戦いもなく新しい文化も育ち、二百六十年も続いた、悪くない時代だったと私はおもう。
そう、家康は語る。
たしかにそのとおりだろう。
家康が「じつはそう単純なものじゃない」と言い放った真の意味
そしてこう続けた。
「よく明治維新で徳川は倒され近代日本が生まれた、なんて、言われますが、じつはそう、単純なものじゃない」
彼がもっとも言いたかったのは、ここだろう。
「『徳川は倒され近代日本が生まれた』というのは本当ですかな」と彼は聞いているのだ。
そしてそれは今回の大河ドラマの大きなポイントなのだとおもう。
つまり、近代日本を作ったのは、倒幕勢力によるものだけではないでしょう、おわかりかな、ということを家康公は訴えているわけである。
「倒幕派からのありきたりな幕末物語ではない」という宣言
幕末もののドラマでは、どうしても薩摩や長州や土佐の「倒幕のために動いた人たち」の行動が中心に描かれる。彼らこそ新しい日本を作った立派な人たちであると称賛されるが「はたして、それが正しいのでしょうかな」と問いかけている。
そのとおりだろう。
彼らの力は大きいが、でもすべてではない。
家康公にそう言われれば、座り直して見るしかない。
大河ドラマ冒頭での、こういう提案はとてもおもしろい。
家康公が「こんばんは」と挨拶して説明してくれているところに、「歴史に対する余裕」が見てとれて、とても楽しい。
新しいアトラクションのナレーションのような家康
北大路欣也演じる家康公は「古くなった時代を閉じ、いまにつながる日本を開いたこの人物こそ、わが徳川の家臣であったと、ご存知だったかな」と言いおわってドラマが始まる。
何だかディズニーランドの新しいアトラクションが始まる前の説明を聞いているみたいで、ジャングル渋沢栄一クルーズに乗り出すかのように、わくわくしてしまった。
このあとも、家康は登場してきて、混迷する幕末の政治情勢を、いままでとは少し違う視点で説明してくれるのだろうと、楽しみである。
渋沢栄一の生涯を「先回り」して見てみると(ネタバレ)
さてついでに、『青天を衝け』の主人公、渋沢栄一の人生を少し先回りしてみる。
歴史上の人物なので、どの時代に何をやったか、すべて知られている事績である。
ただ、渋沢栄一についてあまり知らないけど今年の大河の展開を楽しみにしている人にとってはある種の「ネタバレ」になるので、気をつけて読んでいただきたい。というか、大河ドラマをとても大切に見ていきたいなら、読まないほうがいいとおもう。
歴史上に実際に起こったことをネタバレと断るのも少し奇妙ではあるのだが。
渋沢栄一は、ドラマ冒頭にあったように、一橋慶喜(徳川慶喜)に仕え、幕臣となる。
幕末ぎりぎりの段階で最後の将軍慶喜の家臣であり、政権中枢の近くにいた。
幕府が倒れるときにパリ万博に行っていた幕臣・渋沢栄一
ところが彼は慶応三年になって、海外に行く。
慶応三年は西暦で言えば1867年、翌年は「明治」になるので徳川最後の年である。
パリで万国博覧会が開かれ、それに出展した幕府は、慶喜の弟・徳川昭武を派遣し、その随行員として、渋沢栄一もパリへ行く。
二十代の渋沢栄一にとってとても大きな体験である。
ただ、19世紀のパリは遠い。行って帰るだけでも何か月もかかる。
慶応三年といえば、激動の年である。
この年の十月に慶喜は政権を返上したうえで、アクロバティックな政局運営を行おうとしたが、薩摩藩らによって阻止され、王政復古がなり、年が明けて戊辰戦争が始まってしまう。慶喜は新政府軍の敵となり、戦わず、謹慎する。
そしてこの劇的な期間、慶喜に仕えていた渋沢栄一は「パリの万博に行って不在」なのである。
(遣欧使節団なので、ただ万博に行っただけではないのだが、でも目的の一つはそこにあった)。
もし渋沢栄一が日本に残っていたのなら
渋沢栄一はふつう明治の実業家としてその事績を語られるので、この「幕末政局の最重要時の不在」については強く触れられることはない。
逆にこの渡欧によって渋沢栄一が得た知見について語られることが多いのだが、私はこの「幕末の決定的な時期の不在」こそがまさに渋沢栄一の真骨頂だとおもえる。
もしこの時期、彼が日本にいたなら徳川慶喜の家臣として働き続けることになる。
慶喜のあらゆる政治的駆け引きに立ち会い、政権返上を見守り、そのあとの政権再奪取を画策するも敗れ、やがて新政府軍と戦うことになる状況を、政権中枢近くで経験していたはずなのだ。
でもパリの万博に行ってたから、そんな目には遭っていない。
この一事をもって、渋沢栄一は政治の人ではない、ということがよくわかる。おそらく直感的に「慶応三年の徳川の苦難」を察知していたのではないか、ともおもえてくる。
伊藤博文と渋沢栄一の違い
遠く欧州にいても、日本の政局は伝わってくる。
彼らは慶応三年の日本政府、つまり徳川慶喜首班の徳川政権が派遣した「使節団」であり、その派遣元の将軍慶喜が政権を返上したことや「王政復古」の知らせは遅ればせながら伝わってくる。
政治活動家なら、すぐさま日本に帰るだろう。
明治期の偉大なる政治家伊藤博文は、渋沢栄一とほぼ同年(伊藤が一つ下)であるが、渋沢に先立つこと4年、文久三年にイギリスに留学している。そのおり伊藤は、長州藩がイギリス国らと戦争を始めそうだと聞いてすぐさま帰国の途につき、戦争回避のために長州藩内を奔走する。彼にとってはイギリスで知見を得ることより、祖国の長州藩が無茶な戦争に突き進むのを止めることのほうが大事だった。
これが政治に生きる人の行動である。
文久年間には「攘夷派の志士」として政治的な活動もしていた渋沢栄一であるが、慶応末年にヨーロッパで大政奉還や王政復古のことを聞いても、日本には戻らなかった。
戻ったときはもう薩長たちと幕府及び奥羽越諸藩の戦いはほぼ終わり、旧幕府軍の残党は箱館に籠もっているばかりであった(従兄の渋沢喜作はその箱館にいたのだが)。
「はたして徳川は倒されたんですかな」
渋沢栄一は、慶応三年に日本にいなかったため、慶喜政権の崩壊を止めることはできなかった。まあ、いても絶対に止められていなかったとおもうが、そのかわり「新しい日本を創る男」として戻ってきた。
「よく明治維新で徳川は倒され近代日本が生まれた、なんて、言われますが」という家康公の不満げな言葉は、「近代日本には、徳川に縁のある者も大いに貢献しておりますからな」という強い意味を持たせてある。
ひょっとしたら、徳川家始祖の本音として「はたして徳川は倒されたんですかな」とまで、言いたかったのではないだろうか。
それは「慶応三年に日本にいなかった幕臣」渋沢栄一の生涯を見ればわかる、ということなのだ。
「平和な世界をもたらす麒麟」を求めていた家康だからこそ、「幕府瓦解のときに万博に行っていた渋沢栄一」の真骨頂を理解し、時を越え、その解説に乗り出してきたのではないだろうか。
変転していく渋沢栄一の生涯を見守るのが、とても楽しみである。